名前高橋信二(タカハシシンジ)
生年月日1978年8月7日
日本
出身岡山県津山市
プロフィール1997年ドラフト7位で日本ハムに入団。無名だったがフットワークのよさ、強肩を買われて入団、正捕手を目指すも、入団3年間は一軍出場ゼロに終わる。

4年目の2000年、初打席初安打。2003年、他捕手が次々と故障し、初の開幕スタメン捕手に抜擢。翌年は、打棒を爆発させて、日本ハム捕手として歴代最多の26本塁打、84打点を記録して正捕手の座を守りました。しかし2005年から故障も多くなり、捕手併用となると、2008年には一塁手としても多くの出場をします。

2009年、一塁手に専念すると、つなぎの4番としてチームを牽引しリーグ優勝に貢献。初の打率3割、一塁手としてベストナイン、ゴールデングラブ賞を受賞。2010年、打撃不振、頭部死球の影響もあって成績を落とす。

2011年5月、トレードで巨人へ移籍。しかし活躍することができず、2012年1月オリックスと契約。2014年オフ、戦力外通告。

トライアウトを受験するも不合格。同年12月独立リーグ・信濃グランセローズの総合コーチ兼任選手として1年を過ごす。2016年から、日本ハム捕手コーチ兼打撃コーチ補佐に就任。

通算成績は917試合、2,888打数768安打、82本塁打、416打点、22盗塁、打率.266。ベストナイン1回、ゴールデングラブ賞1回。津山工卒、82センチ、76キロ、右投右打

まったく無名の高校生ながら、日本ハムドラフト7位指名で入団

高橋信二は、岡山県津山市に生まれ、地元の津山工業高校に進学します。まったくの無名でしたが、自身は本気でプロを目指していました。チームは強豪でもないため、甲子園出場もなく、スカウトの注目も浴びません。そのため、東北福祉大学への進学を決意し、セレクションにも合格していました。ところが、1996年ドラフト会議近くになって、突如日本ハムファイターズスカウトから指名の連絡が入ります。そして、ドラフト7位という下位ではあったものの指名されました。しかし、周囲は大学進学してからのプロ入りを強く勧めます。しかし、高橋自身は一日も早いプロ入りを望み、反対を押し切ってプロへ進みました。

ライバル捕手の存在も大きく、入団3年間は一軍出場無しに終わる

捕手として指名を受けた高橋信二でしたが、社会人出身の捕手・小笠原道大も3位で指名されていました。球団も、高卒ルーキー捕手をいきなり起用するつもりはなくファームでの育成からスタートします。3年間、一軍出場機会は一度も訪れませんでしたが、2年目の秋には、業務提携していたヤンキースの3Aチームに野球留学し、大きな出会いがありました。当時、チームの統括コーチを務めていたトレイ・ヒルマンと出会い、指導を受けたことで飛躍的に技術が向上します。そしてヒルマンは、後に高橋の起用に踏み切った監督となりました。

3年目も一軍出場はありませんでしたが、チームの捕手事情は大きく変化がありました。小笠原は打撃を生かすため内野手に転向し、トレードで移籍してきた野口寿浩が正捕手を掴みます。さらに1998年ドラフト1位で實松一成も入団したため、高橋は俊足を生かして外野手への転向も囁かれるほどでした。

突如訪れたチャンスで正捕手の座を掴み、得意の長打力も披露

入団4年目の2000年、最終戦で初めて一軍試合に出場して初打席初安打を記録します。しかし、野口寿浩の正捕手の座は変わらずで、同年から實松一成も徐々に経験をつむようになりました。高橋信二は2000年からの3年間で25試合の出場に終わり、もうチャンスはないと思われましたが、2003年に事態が急変します。

チームは実松の存在に自信を深め、2002年途中で田口昌徳を、そして同年オフには野口をトレードで放出しました。バックアップのため、阪神から山田勝彦を獲得しましたが、2003年開幕前に実松、山田がともに故障し正捕手が居なくなります。すると同年から監督に着任したヒルマンは、7年目の高橋を開幕スタメン捕手に指名しました。当初はリードで精一杯も、必死にこのチャンスに食らい尽きます。中盤に、実松、山田は復帰しましたが、捕手としてチーム最多の105試合に出場し、12本塁打、49打点と打撃でも頭角を現しました。

続く2004年は、チームの歴史を塗り替えます。時に4番を任されるなど、得意の打撃が冴え渡り、日本ハム捕手として歴代最多の26本塁打、84打点、リーグ3位の得点圏打率などで初めて規定打席にも到達しました。

一塁手に専念した2009年は、つなぎの4番として優勝に導く

そのまま正捕手の座を不動にしたいところでしたが、2005年左膝靭帯を断裂して戦線離脱します。すると、鶴岡慎也が台頭し、捕手併用期が訪れました。2008年からは、打力を買われて一塁手としての出場も多くなります。さらに同年のドラフトでは、1位で大野奨太を指名して捕手強化に走りました。

そして2009年、一塁手に専念すると5月末以降、4番に座り打線をリードします。特に交流戦では打率.411と打ちまくり、交流戦首位打者に輝きました。また、状況によっては犠打も決めるという「つなぎの4番」としてチームに貢献し、2年ぶり5度目のリーグ優勝に導きます。2004年以来の規定打席に到達し、リーグ5位の打率.309で、一塁手としてベストナイン、ゴールデングラブ賞をダブル受賞しました。クライマックスシリーズでも決勝タイムリーを放つなど敢闘賞を受賞します。続く巨人との日本シリーズでも、2本塁打で敢闘賞と打撃力が目立った一年でした。

巨人、オリックスと移籍を繰り返すも、輝きを取り戻せず引退

2010年、打撃不振に陥ると、7月には頭部死球の影響で聴覚障害を起こすなど、二軍生活が多くなります。その間、一塁手には選手が余るような状態となり、出場するポジションがなくなりました。すると2011年5月、シーズン途中でしたが、巨人へのトレード移籍が決まります。さらにレギュラー争いが厳しい球団のため、右の代打として期待されましたが、27試合の出場で、打率.182とまったく戦力になれません。同年オフには出場機会を求めて退団を申し入れました。

2012年1月にオリックスと契約を交わし、再びパ・リーグへ戻ってきました。5番指名打者で開幕スタメンに抜擢されるなど大きく期待されます。しかし、成績不振で一軍定着することができませんでした。そしてオリックスでの出場は、3年間で100試合にも到達しません。そして2014年、ついに戦力外通告を受けました。

独立リーグを経て選手生活引退後、古巣日本ハムで指導者に転身

まだ現役続行にこだわる高橋信二は、12球団トライアウトに参加しました。しかし獲得に手を上げる球団はありません。そして2014年12月、独立リーグの信濃グランセローズの総合コーチ兼任選手としての入団が決まります。2015年8月、監督が辞任したため自身が代行を務め、選手としての出場は3試合に終わりました。そして2016年からは、愛着ある古巣日本ハムに戻り、捕手コーチ兼打撃コーチ補佐として指導者生活をスタートさせています。

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