名前鈴木孝政(スズキタカマサ)
生年月日1954年7月3日
日本
出身千葉県
プロフィール中学時代、サイドスローからオーバースローへ転向。剛速球で快投を繰り広げるも甲子園経験なし。

1972年ドラフト1位で中日入団。1974年1軍に上がり、以後リリーフエースとして活躍、3度のリーグ優勝に貢献した。1976・1977年最優秀救援投手。1976年2.98で防御率1位。

その後右ひじを痛めて1982年からは先発に転向し、1984年には16勝をあげてカムバック賞受賞。1986年には通算100勝と500試合登板を達成した。1000奪三振の記録をもつ。

1989年引退し、1990年東海テレビ・ラジオの解説者を経て、1995年中日二軍投手コーチ。1997年シーズン終了後、退任。2004年、一軍ヘッドコーチ。2012-2013年は二軍監督。2015年からは中日OB会長に就任。

通算成績は586試合、124勝94敗96S、防御率3.49、1,788回1/3、1,006奪三振。最多セーブ1回、最優秀防御率1回、最優秀救援投手1回、カムバック賞1回。成東高卒、右投右打、178cm、78kg

剛速球を武器に、千葉県大会で快投するも甲子園出場ならず

鈴木孝政は、千葉県に生まれ、幼少の頃から野球を始めます。投手を務めた鈴木は、蓮沼中学校時代サイドスローでしたが、成東高校進学後はオーバースローに転向すると、剛速球投手へ生まれ変わりました。1年秋からチームのエースに就任すると、2年夏の県大会で41イニング無失点を記録するなど、東関東大会へ進出します。しかし大会直前の打撃練習で右腕を負傷したためマウンドにはあがれませんでした。

投げずして甲子園行きの切符を逃し、3年最後の夏の大会へ挑みます。10連続三振を奪うなど相変わらず豪腕は健在で、準決勝へ駒を進めました。そして、ライバル校である銚子商業との対戦となります。鈴木は無失点投球を続けますが、味方もなかなか得点できず、8回にスクイズで痛恨の失点を喫しました。結局0-1のまま敗れ、甲子園行きは夢と消えます。しかし、その剛速球は高く評価され、1972年ドラフト会議で中日ドラゴンズから1位指名されました。

2年目に活躍し、巨人のV10を阻止する20年ぶりの優勝に貢献

ルーキーイヤー、4月に初登板しましたが、同年の出場はその1試合に終わります。しかし、2年目には早くもチームの大きな戦力となりました。特に後半は、剛速球を武器に左腕竹田和史と2人でダブルストッパーを務めます。当時まだスピードガンが導入されていませんでしたが、150キロを超えていたと言われました。

同年、巨人はV10を目指していましたが、主力選手たちに衰えが目立ち、鈴木孝政はONの前に大きく立ちふさがります。ペナントレース終盤の10月、マジック2で地元に戻ると、ダブルヘッダー2試合に連勝して、20年ぶりのセ・リーグ優勝を決めました。同年の鈴木は、35試合に登板して4勝2敗2セーブ、防御率3.52の好成績を残します。日本シリーズでも3試合に登板して1セーブ(1敗)記録するも、2勝4敗で敗れました。

中日不動の守護神として3年連続でセ・リーグ投手タイトル獲得

3年目から中日の守護神に定着すると、来る日も来る日も登板して、リーグ最多の67試合に登板します。同年は9勝8敗21セーブで、前年の星野仙一に続く最多セーブ投手に輝きましたが、広島に球団創設初優勝を決められてV2はなりませんでした。

鈴木孝政の活躍は続き、1976年もチームトップの60試合に登板して、7勝8敗26セーブ、32SP(セーブポイント)で最優秀救援投手のタイトルを獲得します。また当時の抑え投手は、現代のように1イニング限定ではなく規定投球回数にも到達し、防御率2.98で最優秀防御率のタイトルも奪いました。1977年には、57試合登板でしたが、170イニングを投げぬき3年連続で規定投球回数をクリアします。しかし、18勝9敗9セーブとキャリアハイの勝ち星も稼ぎ、23SPで2年連続となる最優秀救援投手のタイトルを獲得しました。

速球派から技巧派へ転身し、先発投手としてカムバック賞受賞

3年連続でタイトルを奪う活躍を見せましたが、酷使によって投手の生命線でもある右肘を痛めてしまいます。1978年は、過去3年と比較すると登板数が半減しましたが、10勝3敗9セーブと継続して好成績を残しました。しかし、肘の故障によって、自慢の快速球という武器も奪います。そのため翌年からは不本意な成績が続きました。

1982年からは徐々に先発投手へシフトしていきます。同年から2年連続で防御率トップ10に入ったものの、勝敗は9勝7敗、7勝4敗と平凡な成績に終わりました。そこで、鈴木は、ピッチングスタイルの変更を決意します。かつては剛速球で三振を奪うことを目標としていましたが、三振を捨てて打たせてアウトを獲る技巧派への転身を図りました。そして迎えた1984年、それが一気に花開き、チームトップの16勝をマークします。6年ぶりの二桁勝利を達成し、見事カムバック賞を受賞しました。

自身3度目のリーグ優勝を経験するも、シリーズ登板はなく敗退

1985年からも、ベテランローテーション投手として3年連続で規定投球回数をクリアします。1986年には、通算100勝も達成しましたが、二桁勝利に後一歩届かないシーズンが続きました。1988年には、若手の台頭もあって、規定投球回数に届きません。それでも、チームは移籍してきた小野和幸が18勝、さらに落合博満も勝負どころで効果的なバッティングを披露し、優勝を成し遂げました。鈴木孝政は、リリーフ中心ながら4勝をマークし、自身3度目の優勝に貢献します。しかし、日本シリーズでは一度も登板機会がなく、チームも敗れ、またしても日本一の美酒を味わうことはできませんでした。

引退後は解説者を経て、三度中日の指導者として腕を振るう

1989年、24試合に登板して3勝をマークするも、同年限りでの引退を決意します。その後は解説者として過ごした後、1995年から古巣中日の二軍投手コーチに就任しました。しかし、3年間でBクラス3回、1997年は最下位に転落しコーチを退任します。その後も、2004年は1年だけでしたがヘッドコーチを務め、2012年からは二軍監督を歴任しました。すべて古巣の指導者として腕を振るいましたが、なかなか成果は上がっていません。それでも中日に対する愛情は絶えることなく、2015年からはOB会長に就任しています。

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