名前 | 与田剛(ヨダツヨシ) |
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生年月日 | 1965年12月4日 |
国 | 日本 |
出身 | 千葉県君津市 |
プロフィール | 周西中、木更津中央高、亜細亜大、NTT東京を通じて投手。スピードは速いがノーコンのため、大学の公式戦では1勝のみ。
NTT東京の森二郎監督に見出されて開花。149キロのスライダーを武器に、1989年全日本チームに参加、5月のキューバ戦、8月のインターコンチネンタル大会(プエルトリコ)、アジア選手権(韓国)で活躍。 1990年ドラフト1位で中日に入団。同年オールスターに出場、また救援勝利4、セーブ31を挙げ、最優秀救援投手・最優秀新人賞を獲得。1996年シーズン途中でロッテへ移籍、1998年日ハム、2000年阪神に移籍。同年登録名を剛士とする。 同年シーズン終了後、引退しNHKの野球解説者を務める。2009年、2013年とWBC日本代表の投手コーチ就任。2016年、楽天の投手コーチに就任。 通算成績は148試合、8勝19敗59S、防御率4.58、247回1/3、212奪三振。最優秀救援投手1回、新人王。東海テレビスポーツ選奨。亜細亜大学卒、右投右打、180cm、76kg |
社会人時代、突如150キロ連発する投手となりドラフト1位入団
与田剛は千葉県君津市で育ち、幼少の頃から野球を始めます。投手を務めて、周西中から木更津中央高へ進学しましたが、全く無名のままで過ごしました。3年夏には、桑田真澄、清原和博の1年生コンビが全国制覇を達成する中、早々と県大会で敗退します。卒業後は亜細亜大学に進学しましたが、故障が絶えず、試合で登板することすらほとんどありませんでした。
発達しすぎた筋肉が原因で右腕の血行障害を患い、1学年先輩の阿波野秀幸らが活躍するのを見続けます。4年生となってようやく1勝を挙げるも、当然プロからお呼びがかかる選手ではありませんでした。その後NTT東京へ進みましたが状況は変わらず、自身のクビが危うい時期となった頃、突如投手としての才能が開花します。150キロの速球を連発するようになると一気に世間の注目を集めました。1989年には、インターコンチネンタルカップやアジア野球選手権の日本代表にも選出されます。そして、同年のドラフト会議では、野茂英雄に8球団の指名が集中する中、中日ドラゴンズが単独で1位指名しました。
いきなり守護神に定着し、31Sで最優秀救援投手&新人王受賞
1年目のキャンプから、与田剛は惜しみなく剛速球を披露して首脳陣の度肝を抜きます。球速はもちろんのこと、高目にホップするボールは打者がわかっていても空振りを取れるというウィニングショットになりました。1990年の開幕戦は延長戦に突入し、11回表無死一三塁という絶体絶命の場面でプロ初登板を迎えます。そして、この大ピンチで与田の剛速球がベールを脱ぎました。150キロを超えるボールを連発させて、2三振を奪い無失点に抑えます。前年までのクローザー郭源治が怪我で離脱したため、そのまま中日の守護神に抜擢されました。
そこから面白いようにセーブを積み重ね、セ・リーグの並み居る打者を牛耳っていきます。人気もうなぎ上りとなり、オールスターにもファン投票で選出されました。夏場の8月には、当時日本人最速の157キロも計測するなど、50試合に登板して4勝5敗31セーブという新人最多セーブ記録を樹立しました。同年の中日は勝率5割を割り、4位とBクラスでしたが、与田は最優秀救援投手に新人王と一人気を吐きました。
1年目の酷使がたたり、2年目から早くも不調の時期を迎える
ルーキーでいきなりチームの主力となった与田剛は、忙しいオフを過ごします。大人気となったがゆえに、サイン会や野球教室などで時間をとられ、十分な休養をとることができませんでした。すると2年目のキャンプで、球速が140キロ程度に落ちてしまいます。そして、前年の酷使で早くも身体に異変が起こっていました。
背中の筋肉が原因不明の異常をきたし、球速も戻りません。同年は、新人の森田幸一にクローザーの座を譲り、29試合に登板しましたが0勝3敗2セーブに終わりました。3年目は、41試合に登板して、23セーブと復調の兆しを見せます。奪三振率も戻っていましたが、結局与田が輝きを放ったのは同年が最後となりました。
右肘痛を発症して登板数を減らすと、チームの構想から外れる
4年目の1993年、完全復活が期待されましたが、今度は右肘痛に苦しみます。1年目のような剛速球は鳴りを潜め、結局15試合の登板で1勝3敗3セーブ、防御率9.78の成績で終わりました。一時、与田剛に代わってクローザーを務めた森田幸一も、活躍した翌年に故障で不調に陥るという負のスパイラルが続きます。その後も、7試合、5試合と年々出場機会を減らし、チームの構想から外れてしまいました。
ロッテ、日本ハム、阪神と3球団を渡り歩くも復活せず引退
1996年シーズン途中に、トレードで千葉ロッテマリーンズに移籍します。そのまま、野球留学でアメリカに渡りましたが、翌年シーズンも1試合も投げることなく自由契約となりました。現役続行にこだわり、日本ハムにテスト入団するも、右肘の状態は改善せずに遊離軟骨除去手術を受けて、さらにマウンドから遠ざかります。移籍2年目の最終戦で、4年ぶりに一軍で1イニングだけ投げましたが、復活したとはとてもいえず再び戦力外通告となりました。
2000年、今度は阪神タイガースにテスト入団を決めます。キャンプではこれまでにない程好調を維持し、野村克也監督もクローザー候補として大いに期待しました。しかし、シーズン開幕前に、腰痛に襲われると再びマウンドに上がることができなくなります。結局、戦線離脱したまま、一軍出場することなく、同年での現役引退を決意しました。
現役引退後は、2度にわたってWBC日本代表投手コーチ就任
現役引退後は、長らくの間を解説者として過ごします。その間、プロ野球のユニフォームを着ることはありませんでしたが、社会人チーム・サウザンリーフ市原の投手コーチを務めました。2009年、2013年にはともにWBC日本代表の投手コーチを務め、2009年の大会では日本の連覇に貢献します。2015年オフには、東北楽天ゴールデンイーグルスの投手コーチに就任し、久しぶりにプロ野球ユニフォームに袖を通しました。