名前高橋智(タカハシサトシ)
生年月日1967年1月26日
日本
出身神奈川県横浜市
プロフィール1984年ドラフト4位で投手として阪急入団。1987年野手に転向。ウエスタンリーグで21本塁打を放ち一軍に上がり、2打席目でホームランを放つ。

1991年チーム1の23本塁打を放ち素質が開花。1992年29本塁打をマークし、ベストナインに選ばれる。1998年シーズン終了後、トレードでヤクルトに移籍。2001年オフ、戦力外通告。

2002年、合同トライアウトで台湾大聯盟の台北誠泰太陽に入団も、シーズン途中退団。

通算成績は939試合、2,777打数737安打、124本塁打、408打点、24盗塁、打率.265。ベストナイン1回。向上高卒、194センチ、100キロ。右投右打

後一歩で夢の甲子園も、神奈川県大会決勝延長14回で力尽く

高橋智は、神奈川県横浜市に生まれ、幼少期から水代わりに牛乳を飲んで育ちます。中田中学校から規格外の高身長を手に入れ、向上高校ではその身長を野球に生かしました。しかし、神奈川県の高校野球レベルは高く、県大会を勝ち抜くのは並大抵ではありません。さらに1980年夏には横浜高校が全国優勝、自身2年時の1983年には春夏連続で横浜商業が甲子園に出場し、ともに準優勝という全国レベルでもありました。

夏の県大会では2年連続でベスト8にも残れませんでしたが、後にプロ入りする選手3名が主力となった1984年、快進撃を起こします。高橋は投手兼一塁手として、捕手で4番を務めた大塚義樹(南海、大洋など)の後の5番を任されました。準々決勝を5回コールドで圧勝し、準決勝では大塚、高橋の本塁打などであげた8点を、エース小川拡保が完投して勝利します。そして桐蔭学園との決勝戦を迎えました。小川が3回で2失点すると、高橋が4回からマウンドに上がります。6回にさらに2失点しましたが、7回に大塚の2ベース、高橋の本塁打等で一気に同点に追いつき延長戦に突入しました。行き詰る熱戦でしたが、延長14回表に高橋が大量5失点し、その裏2点を返しましたが6-9で敗れます。高橋は打者として5打数2安打3打点、投手として11回投げぬきましたが、甲子園は夢と消えました。

投手として入団するも、3年目から打者転向して本塁打デビュー

甲子園経験はなかったものの、身長194センチの大型右腕は、1984年ドラフト4位で指名されて阪急ブレーブスへ入団します。下位指名ではあったものの、複数球団から注目されていました。同年の阪急は、日本シリーズで敗れたものの、先発ベテラン投手たちは健在で、高卒ルーキーの高橋智は二軍スタートとなります。そしてウエスタンリーグでマウンドに上がったものの2年間で突出した成績を残せませんでした

すると2年目の1986年オフに就任した水谷実雄打撃コーチの勧めによって、打者転向を決意します。そこからまさにマンツーマンでの指導がスタートしました。するとすぐさま長距離打者としての才能を開花させ、ウエスタン新記録となる21本塁打を放ちます。その活躍が評価され、1987年シーズン終盤の9月、チームが西武と優勝争いしている真っ只中に、初めて先発出場の機会が与えられました。そして5回にはエース工藤公康からプロ初安打となる本塁打を叩き込みます。同年は、28試合に出場して、4本塁打と大気の片鱗を見せました。

ホームランバッターとして才能が開花し、チームに主砲に成長

その後低迷する時期が続く間に、チームは阪急からオリックスへと親会社、球団名が変更します。そして、自身7年目の1991年、突如覚醒して外野手レギュラーを奪いました。前年までの主砲・門田博光が不在となったこともありましたが、同年は123試合に出場して、打順は下位ながらもチームトップの23本塁打を放ちます。その巨体から、「デカ」という愛称もつき多くのファンにも愛されました。

1992年からはブーマーも不在となり、右の大砲としてさらに期待をかけられます。開幕5番を任され、不調から打順を下げるも、5月末には3打席連続本塁打、6月には打率.351、8本塁打で月間MVPを受賞しました。前年と異なり、打率もリーグ6位の打率.297と安定し、ともにチームトップの29本塁打(リーグ6位)、78打点(リーグ8位)と期待に応える大活躍を見せます。外野手として初のベストナインに選出されるなど、キャリアハイの成績を残しました。

イチロー、田口壮など、鉄壁な外野手の台頭でレギュラーを失う

その後も長距離砲として期待されましたが、怪我や若手の台頭もあって、出場機会を減らします。1994年には、大ブレイクしたイチロー、さらに内野手から外野手へ転向した田口壮が外野手レギュラーとなり、本西厚博と3人で鉄壁な外野陣を形成しました。同年から就任した仰木彬監督が推進した日替わり打線にも馴染めず、成績も低迷します。1995年にはオリックスとして初優勝、翌年には日本一と快進撃を続ける中で、戦力になることができませんでした。そして、1998年にはわずか6試合の出場に終わり、オフにはヤクルトへのトレード移籍が決まりました。

ヤクルトへ移籍して復活を見せるも、日本一に貢献できず解雇

移籍初年度で初のセ・リーグでの戦いでしたが、アドバイザー中西太の助言で、打棒が復活します。1999年、開幕スタメンに名を連ねると、開幕から本塁打を連発しました。シーズン途中に不調に陥り、規定打席には到達しませんでしたが、打率.293、16本塁打、43打点と復活を見せます。翌年も98試合に出場して、13本塁打、44打点と貴重な外野手準レギュラーとして活躍しました。しかし、2001年は、ヤクルトのレギュラー野手8名が規定打席に到達するという快挙を成し遂げます。チームはそのままリーグ優勝、日本一と一気にゴールテープを切りました。高橋智は、35試合の出場に留まり、打率.147と大きく低迷しまし、オフには戦力外通告を受けました。

台湾球界から退くと、現在は新たなセカンドキャリアを歩む

ヤクルト退団後は、合同トライアウトで台湾大聯盟の台北誠泰太陽に入団します。しかし、当時の台湾球界は八百長の噂もあり、荒れ果てたリーグのためシーズン途中で退団を決断しました。その後、解説者として過ごしていましたが、野球界から離れて新たな道を進むことを決意します。接骨院から始め、豊田の部品製造業などを経験するも、リーマンショックに遭って相当な苦労を経験しました。それでも3度目の転職を経て、現在はエレベーター整備工として新たな人生を歩んでいます。


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