名前 | 西山秀二(ニシヤマシュウジ) |
---|---|
生年月日 | 1967年7月7日 |
国 | 日本 |
出身 | 大阪府八尾市 |
プロフィール | 大正中では桑田真澄(巨人)とバッテリーを組む。上宮高では1年からレギュラーで活躍。
1986年ドラフト4位で南海(現・ダイエー)に入団。1987年トレードで広島に移籍。1993年から引退した達川光男に代わって正捕手に抜擢。 1994年、126試合に出場して、ベストナイン、ゴールデングラブ賞のダブル受賞。1996年は、リーグ15位、自身初の打率3割をマークして、再びベストナイン&ゴールデングラブ賞をダブル受賞。以後、故障がちではあったものの、広島の正捕手として君臨。 2004年オフ、コーチ就任打診を断り、巨人へ移籍。2005年、19試合出場に終わり同年現役引退。2006年からは巨人コーチに就任。2010年退任。 通算成績は1,216試合、2,958打数716安打、50本塁打、282打点、36盗塁、打率.242。ベストナイン2回、ゴールデングラブ賞2回、最優秀バッテリー賞1回。上宮高卒、右投右打、174センチ、86キロ |
中学で桑田真澄とバッテリーを組むも、高校時代は実現せず
西山秀二は、大阪府八尾市に生まれ、幼少の頃から野球を始めます。そして大正中学時代、自身が捕手を務めた中では最高の投手という桑田真澄とバッテリーを組みました。中学生にして、球速は140キロを超え、3年生時には大阪府内で敵なし状態となるほど、あらゆる大会で優勝します。そのまま、揃って上宮高校へ進学してバッテリーが継続されると思われました。
しかし桑田は憧れのPL学園へ進学し、バッテリーは解消されます。西山は上宮高校に進学してすぐにレギュラーを掴みましたが、PLは桑田、清原和博との1年生コンビが即主力となり、激戦区大阪で5季連続出場を果たしました。上宮は、夏予選では2年連続準々決勝で敗退し、3年最後の夏は5回戦敗退と、PLと対戦する前に姿を消します。KKコンビはドラフトでも最注目となり、桑田がまさかの巨人単独1位指名、清原が6球団競合の末、西武への入団が決まりました。一方、西山も高卒でプロ指名を受けます。4位ながら、南海ホークス、近鉄バファローズで競合し、南海への入団が決まりました。
南海ホークス入団も、2年経たないうちにまさかのトレード移籍
中学時代、コントロール抜群の桑田真澄のボールに慣れていたため、プロの投手がワンバウンドするボールを投げることに驚きを抱いてしまいます。とっさにボールへの反応が遅れたため、捕手でありながらブルペンでも受けさせてもらえない状況となりました。捕手は何より経験が必要のポジションですが、こんな状態の西山秀二には一軍デビューのチャンスが訪れません。そして、2年目も途中まで一軍昇格のチャンスはなく半年が過ぎると、前代未聞の出来事が起こりました。高卒ドラフト入団で2年も経たないうちに、広島東洋カープへのトレード移籍が決まります。球団自ら西山の実家に謝罪に訪れるという異例の事態にまで発展しました。
下積み生活を経て、達川光男の後継者として広島正捕手抜擢
1987年途中、広島のユニフォームを着ましたが、チームには達川光男が絶対的な正捕手として君臨します。西山秀二は、ファームで経験を積みながら、まずは第2捕手を目指すことになりました。そしてもちろん、ライバルも続々と現れます。1988年ドラフトでは、5位ながら「東の江藤、西の谷繁」と言われた高校生捕手の江藤智が入団し、1990年には当時大学No.1捕手と評価されていた瀬戸輝信もドラフト1位指名で加わりました。
その間、諦めずに練習に励み、1989年に一軍初出場、1990年には捕手として初出場します。江藤は打力を買われて三塁手にコンバートされ、西山も1991年には捕手のみならず、外野手や三塁手としても出場しました。1992年には、再び捕手として76試合出場と経験を積むと、ベテラン達川の後継者一番手に浮上します。そして同年で達川が引退したため、翌年からついに正捕手の座を掴みました。
打率3割と打撃力もアップし、球界を代表する捕手に成長
1993年は、植田幸弘、瀬戸輝信との併用ながら、捕手最多の108試合に出場して、正捕手の座を守ります。盗塁阻止率も.462と高い数字でしたが、打率は.224と低く、チームは最下位に転落しました。いつの時代も、チーム順位が悪いと捕手は評価されません。当時は、リーグ連覇を果たし、打撃でも大きく貢献していた古田敦也がリーグNo.1捕手の称号を得ていました。
すると、翌1994年、西山秀二はバットで大きく成長を見せて、チームの正捕手の座を磐石なものとします。リーグ15位の打率.284を残したため、代えられることが少なくなりキャリアハイの126試合に出場しました。チームも3位とAクラスへ浮上させたことから、自身初のベストナイン、ゴールデングラブ賞をダブル受賞します。翌年は故障もあって、83試合出場に留まりましたが、1996年は、さらにギアを挙げてチーム2位、リーグ8位の打率.314という高打率を残し2年ぶりのベストナイン&ゴールデングラブ賞をダブル受賞しました。
現役最終年は、桑田真澄とのバッテリーを復活させて引退
その後、故障も多く瀬戸輝信との併用が続きましたが、約10年もの間、正捕手の座を守ります。しかし、35歳を超えるベテランとなった頃から、徐々に若手にポジションを奪われ始めました。石原慶幸が正捕手候補として独り立ちした2003年は、60試合に出場機会を減らします。2004年には、ついに22試合出場に留まり、オフにコーチ就任打診を受けました。
しかし現役続行にこだわる西山秀二は、それを拒否したため自由契約となり、巨人への移籍でチームを去ります。そして巨人でも、攻守に貢献する阿部慎之助の存在は絶大で、わずか19試合しか出場できませんでした。それでも、桑田真澄とのバッテリーが23年ぶりに復活します。中学時代の黄金バッテリー復活を胸に、同年で現役引退を決意しました。
引退後は巨人バッテリーコーチに就任して、捕手育成に尽力
巨人在籍はわずか1年に終わりましたが、引退試合が企画され、奇しくも広島戦だったため両球団のファンから見送られます。そして、引退後も巨人に残り、指導者生活をスタートさせました。二軍バッテリーコーチに就任し、加藤健の育成に力を注ぎます。その後一軍バッテリーコーチにも就任し、2010年まで務めました。巨人退任後は、学生野球資格回復研修を受講し、学生野球選手への指導ができる状況を整えており、今後も指導者として期待されています。