名前牧田明久(マキダアキヒサ)
生年月日1982年6月3日
日本
出身福井県武生市
プロフィール日野小で野球を始め、鯖江高時代は投手として1年からベンチ入り、2年からはエースで4番。高校通算18本塁打を記録。

2001年ドラフト5位で近鉄に外野手として入団。4年間一軍出場はなく、2004年はプロ野球再編問題により近鉄の消滅が決定。新球団楽天が創設され、分配ドラフトによって楽天入団が決定。

2005年、代走としてプロ初出場。2006年からは外野守備力を評価されて、試合後半の守備固めとして出場機会を増やす。2010年からは、パンチ力をつけてチームに少ない長距離打者として活躍。2012年の、9本塁打、53打点はともにチームトップの数字でした。

2013年シーズンは不調に終わるも、日本シリーズ第7戦で貴重な本塁打。2015年、打率.311、2016年、打率.355と規定打席不足ながら高打率をマーク。2016年戦力外通告を受けて引退。引退後は、楽天イーグルスアカデミージュニア部門コーチに就任。

通算成績は691試合、1,522打数385安打、23本塁打、150打点、23盗塁、打率.253。鯖江高卒、180センチ、76キロ。右投右打

全く無名の高校時代も、近鉄バファローズから指名を受ける

牧田明久は、福井県武生市(現越前市)で生まれ、兄の影響で小学生時代から野球を始めます。地元の少年野球チーム「北日野マウンテンズ」に入るだけではなく、父も練習を手伝い、庭にマウンドを作るほどの熱の入れようでした。兄は、指導者が厳しすぎて野球を辞めてしまったため、のびのび野球が出来る鯖江高校へ進学します。投手で4番を務めていましたが、甲子園に出場したわけではなく、ほとんど注目されませんでした。当時は、プロ志望届もないため、スカウトの目に留まらない限りプロへ進むことは限りなく難しい時代です。それでも、2000年ドラフト会議において近鉄バファローズから5位指名を受けました。

近鉄入団後一軍で活躍できないまま、オリックスとの合併が決定

中学からずっと投手で4番だった牧田明久でしたが、外野手として指名されます。ルーキーイヤーの2001年、チームは前年まで2年連続最下位でしたが、いてまえ打線が爆発してリーグ優勝を飾りました。北川博敏による代打逆転サヨナラ満塁本塁打という劇的な優勝決定でしたが、ファーム暮らしだったため、グラウンドには立てません。球場で生観戦こそしましたが、自身からは遠い出来事という感覚でした。

その後もファームでの出場に限られましたが、そこでも打撃成績は悪く一軍昇格することなく時が過ぎます。入団4年目の2004年も同じ状況でしたが、球団には激震が走りました。近鉄とオリックスの合併が噂され、野球どころではなくなります。自らも球団尊属の署名活動に参加しましたが、最終的には合併をとめられず、楽天球団の新規参入が決まりました。

分配ドラフトで楽天から指名され、創設メンバーとしてプロ初出場

新たな行き先は、先にオリックス側がオリックス、近鉄のプロテクト選手25名を選抜し、その後楽天、オリックスの順で20名ずつ指名するという分配ドラフトで決まります。牧田明久は、レギュラーを獲る為に新球団・東北楽天ゴールデンイーグルスを希望し、それが現実となりました。

こうして楽天の1期生として新たなスタートを切り、2005年7月にようやくプロ初出場を代走として果たします。その後も、主に代走としての出場が続き、13試合に出場して、何とかプロ初安打も記録しました。

野村克也監督に、外野守備力を評価されて一軍戦力として活躍

田尾安志監督1年目は、予想通り苦戦を強いられ、38勝97敗1分で勝率3割未満となります。わずか1年で解任されて、2年目からは名将・野村克也が監督に着任しました。牧田明久にとってはこれが転機となり、外野手としての守備力を大いに評価されます。守備固めメインの起用ながら、62試合に出場して多くの経験を積みました。2007年も、97試合とさらに出場機会を増やし、プロ初本塁打も記録します。前年よりは打撃力もアップさせて、打率.265とまずまずの成績を残しました。

パンチ力をつけて、チーム最大の弱点を埋める活躍を見せる

2007年オフに右肘を故障し手術を受けたため、2008年は一軍出場無しに終わります。怪我も癒えた2009年、開幕一軍入りしてレギュラー獲得を目指しましたが、打撃が大不振に陥り、37試合出場に終わりました。

2009年、チームは初のAクラスを確保する2位と躍進します。打撃陣では、山崎武司が主砲として39本塁打、107打点、鉄平が首位打者とチームを牽引しました。山崎を除くと長距離打者不在というチームの弱点は明らかでしたが、牧田明久が遅咲きながらパンチ力を覚醒させます。2010年は、81試合の出場ながら、打率.291、6本塁打で長打率はチームトップを記録しました。2012年には、キャリアハイの123試合に出場し、チームトップタイの9本塁打、さらにはチームトップの53打点をマークします。このように山崎移籍後はチームの長距離砲として存在感を見せました。

初の日本シリーズでは、勝負を決める第7戦で貴重な本塁打

2013年、開幕からスタメン出場し、5番打者として出場します。しかし、怪我で離脱すると、夏場に一軍復帰後も代打としての出場に留まりました。同年はエース田中将大がシーズン負け無しの24勝0敗1セーブという神がかり的な活躍を見せます。パ・リーグそしてクライマックスシリーズも制して球団創設初優勝を決めました。自身は27試合出場で打率.222と不本意な成績に終わりましたが、巨人との日本シリーズで印象に残る仕事をします。3勝3敗のタイで迎えた第7戦、2-0とリードした4回に、リードを広げる値千金の本塁打を放ち、チームの日本一に貢献しました。

楽天創設メンバー最後の戦士は、現役16年で引退し指導者に転身

楽天入団直後は外野守備力を武器に、中盤はパンチ力での戦力にと、チームに足りないところを的確に把握して脇役戦力に徹してきました。2014年からパンチ力に衰えが見えると、ミート中心のバッティングへ再度モデルチェンジします。同年は、打率.234と成果が出ませんでしたが、2015年には規定打席不足ながら打率.311と安定性を増しました。代打の切り札としても、脅威の打率.583とベテランの意地を見せます。2016年も、16試合と少ない出場ながら打率.355を残しましたが、チームの若手切り替え方針もあって、ついに戦力外通告を受けました。

楽天の選手としてプロ人生を終えたいと思い、現役引退を決意します。この瞬間、楽天創設を知るメンバーがすべて現役からいなくなりました。球団としては功労者に対し、楽天イーグルスアカデミーのジュニア部門コーチのポストを準備します。将来的な指導者として復帰を見据え、ジュニア世代の指導を開始しています。

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