名前 | 藤田元司(フジタモトシ) |
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生年月日 | 1931年8月7日 |
国 | 日本 |
出身 | 愛媛県越智郡宮窪村四阪島(現・宮窪町) |
プロフィール | 西条北高から慶大を経て日本石油で投手として活躍。
1957年巨人入りして、新人王。1958年、1959年は最優秀選手に選ばれる。1964年現役引退。スカウトなどを経て、1976年巨人退団後解説者となる。 1980年長嶋の後任として巨人監督に就任。1981年1年目にして日本一となる。1983年退任して解説者となり、1988年秋再び監督に復帰。1989年リーグ優勝、日本シリーズ制覇を果たす。1990年リーグ2連覇達成。 1992年勇退し、1993年春からNHKの野球解説者に。1996年野球殿堂入り。世界少年野球推進財団常務理事も務める。大学時代優勝経験のないところから“悲運のエース”といわれ、プロ入り後はマナーの良さから“球界の紳士”とも呼ばれる。がん撲滅運動にも取り組む。2006年、心不全にて74歳で死去。 通算成績は364試合、119勝88敗、防御率2.20、1,701回0/3、924奪三振。最多勝1回、最高勝率2回、新人王、MVP2回、ベストナイン1回。正力松太郎賞1回、橋戸賞、後楽園スタヂアム特別賞、文部省スポーツ功労者。慶応義塾大学卒、右投右打、173cm、64kg |
慶應義塾大学でスター選手にのし上がり、都市対抗でも優勝
藤田元司は、1931年愛媛県に生を受けます。中学時代から他校に喧嘩をしかけるように力が有り余っていました。高校入学後も暴れん坊ぶりは変わらずで、退学寸前のところでしたが西条北高(現在の西条高校)野球部長の計らいで同校に転校するとそれが転機となります。甲子園出場こそなりませんでしたが、野球へ打ち込むようになりました。
当時全国的には無名の投手でしたが、慶應義塾大学のテストでピッチングを披露すると、美しいフォームでナインを圧倒します。エースの座を掴むと、東京六大学野球リーグのスター選手として神宮球場を沸かせました。通算63試合で31勝19敗、227奪三振という成績を残し、卒業後は日本石油へ入社します。1956年には、エースとして都市対抗野球大会初優勝の原動力となり、橋戸賞を受賞しました。
巨人入団後3年間で73勝し、2年連続リーグMVPを受賞
1957年、大学の先輩である水原茂の誘いを受けて巨人へ入団します。するといきなりチーム最多の60試合に登板し、エース別所毅彦をしのぐ17勝で優勝に貢献しました。防御率もリーグ10位の2.48で、新人王を手中におさめます。同年は2位大阪タイガースとわずか1ゲーム差だったので、藤田の働きは貴重でした。
2年目以降はさらにギアを挙げて球界を代表する投手にのし上がります。1958年、登板試合数は前年同様でしたが、先発起用が多くなり29勝13敗という圧倒的な成績を収めました。翌1959年には天覧試合にも先発抜擢され、27勝11敗で初の最多勝タイトルを奪い、チームの5連覇に大きく貢献します。実に入団3年間で173試合に登板して73勝し、2年連続でセ・リーグMVP受賞とまさに絶頂期でした。
故障でわずか8年と短命に終わり、悲運のエースと呼ばれる
しかし、圧倒的な登板過多により、投手の命とも言うべき肩を故障してしまいます。痛みに耐えながらも登板を続けましたが、成績は急降下していきました。それでも毎シーズンマウンドに立ち、1960年からの5年間で46勝を積み上げます。しかし、V9が始まる前年の1964年、限界に達しプロ生活わずか8年で現役引退しました。
藤田元司はまさに太く短いプロ野球人生でしたが、学生時代から悲運のエースと称されました。慶応大学時代は入学直後の1年春に優勝を経験するも、結果的にはそれが唯一の優勝となります。エースとなって以降は早慶戦などで好投するも栄冠を勝ち取れませんでした。プロに入っても、日本シリーズでは苦汁を飲まされ続けます。2年目の1958年は、「神様・仏様・稲尾様」と呼ばれた稲尾和久に主役の座を奪われましたが、藤田も稲尾と同じく6試合に登板して、防御率1.09という好成績を収めていました。さらに翌年は、南海ホークスのエース杉浦忠が4連投4連勝で敗退しましたが、自身も第2戦から3試合連続で先発しています。このように日本シリーズでは、相性が悪く5連敗というワースト記録も樹立しました。
長嶋茂雄解任後という逆風の中、巨人監督を務めて日本一達成
現役引退後は、12年間、古巣巨人の投手コーチを務めてV9にも貢献します。1975年からは2年間、大洋ホエールズのコーチも歴任しました。その後、解説者生活をしていましたが、長嶋茂雄監督が解任後に後任監督を引き継ぐという風当たりが強い中、巨人に復帰します。就任早々に、ドラフトで原辰徳を引き当てると、初年度にいきなり巨人を日本一に導き賞賛を浴びました。江川卓、西本聖、定岡正二を先発3本柱として起用してチームを安定させます。また、入団後間もない斎藤雅樹をサイドスローへ転向させたのも、この時期のアドバイスがきっかけでした。翌年はわずか0.5ゲーム差の2位に終わりましたが、1983年もリーグ優勝を実現します。完全にチームを立て直して、助監督だった王貞治に監督を引き継ぎました。
巨人第2次監督時代、斎藤雅樹を平成の大エースに育て上げる
1989年から、藤田元司は2度目の巨人監督としてチームへ復帰します。王貞治監督時代は5年でリーグ優勝1回と世間を納得させる実績ではありませんでした。しかし、前回同様、就任1年目でチームを日本一へ導きます。伸び悩んでいた斎藤雅樹を精神的に立ち直らせると、同年はプロ野球記録の11連続完投勝利をあげるなど20勝を挙げて大エースとなりました。槙原寛己、桑田真澄と超強力3本柱を形成します。日本シリーズでも、初優勝を狙う近鉄バファローズに3連勝と追い詰められましたが、そこから奇跡の4連勝で見事覇権奪還しました。
翌1990年は、2位に22ゲーム差をつける圧勝優勝を成し遂げましたが、日本シリーズで西武ライオンズに4連敗と木っ端微塵に敗れます。1991年は、投手陣が期待通りの働きを出来ず、自身初のBクラス4位で終わりました。1992年、5月には最下位という状況でしたが、後半盛り返します。しかし大混戦を抜け出せず2位に終わり、監督の座を長嶋茂雄に引き継ぎました。
74歳で永眠するも、監督としての手腕は後輩たちの目標とされる
その後は解説者を務め、1996年には野球殿堂入り表彰を受けます。しかし、2000年頃から体調を崩し表舞台から姿を消しました。そして、2006年、心不全にて74歳で永眠します。巨人は功労者に対し、黒沢俊夫、水原茂に続く史上3人目となる球団葬を執り行いました。選手時代の活躍も特筆すべきものですが、監督としての手腕を評価する声は今でも多いです。投手出身監督を認めない野村克也も、藤田元司だけは例外とし、教え子であり監督経験者の原辰徳や中畑清らは常に理想の監督像としています。