名前山倉和博(ヤマクラカズヒロ)
生年月日1955年9月2日
日本
出身愛知県大府市
プロフィール福岡で生まれ、小学4年で愛知県大府市へ転居。東邦高校で野球に専念し、2年に捕手転向。1973年は春夏連続で甲子園出場。南海ホークスドラフト2位指名を拒否して、早稲田大学へ進学。

1977年ドラフト1位で巨人入団。ルーキーイヤーにいきなり開幕スタメン捕手に抜擢されて、本塁打も放ちます。その後伸び悩むも、伊東キャンプで鍛えられると、1980年から正捕手の座を獲得。1981年には、ベストナイン、ゴールデングラブ賞でチームの日本一に貢献。

思いきりのよいバッティングで巨人球団史上、初めて、捕手で100本塁打を放つ。1987年には、22本塁打、66打点と投打に活躍しMVPを獲得。13年間正捕手の座を守り、1990年引退。

以後野球解説者として活躍していたが、1992年長嶋監督の巨人に戻り、一軍バッテリーコーチ。1998年シーズン終了後、退団。2011年、福岡ソフトバンクホークスコーチに就任も1年で退団。著書に「キャッチャーになんてなるんじゃなかった!—意外性の男の意外な告白」がある。

通算成績は1,262試合、3,608打数832安打、113本塁打、426打点、27盗塁、打率.231。MVP1回、ベストナイン3回、ゴールデングラブ賞3回。東邦高校卒、早稲田大学卒、右投右打、178cm、80kg

高卒時、南海ドラフト2位指名を拒否して、早稲田大学へ進学

山倉和博は福岡県で生まれ、その後小学4年生のときに愛知県大府市へ転居します。中学時代には様々なスポーツに挑戦しましたが、東邦高校では野球に専念しました。1年秋から外野手レギュラーを奪い、内野手を経て2年終わりからは捕手に転向します。3年時の1973年は春夏連続で甲子園に出場し、センバツでは見事ベスト8を実現しました。

俊足かつ強肩捕手でプロスカウトからの評価も高く、同年のドラフト会議では南海ホークスから2位指名を受けます。選手兼任監督の野村克也から自身の後継者に指名されるほどでしたが、一般受験で早稲田大学へ進学しました。そして大学時代も、2年後輩の岡田彰布らと中軸を担い、神宮のファンを沸かせます。大学時代、盗塁王も奪うなどベストナインを2度受賞し、4年時には主将も務めました。

巨人ドラフト1位で入団し、新人ながら開幕スタメン捕手に抜擢

1977年ドラフト会議、巨人は大注目された江川卓の獲得を目指しました。しかしクラウンライターライオンズに先を越されたため、山倉和博を1位で指名します。当時の巨人はリーグ連覇しておりましたが、捕手は吉田孝司、福島知春に新人の笠間雄二など固定できていませんでした。

1978年、巨人はルーキー山倉を開幕スタメン捕手に抜擢します。するとエース堀内恒夫を上手くリードしたばかりか、第2打席でプロ初安打を本塁打で飾るというド派手なデビューを飾りました。そのまま先発で起用されましたが、打撃が振るわず、正捕手定着とはなりません。同年は、69試合出場の打率.197、3本塁打、9打点に終わりました。

伝説の伊東キャンプで徹底的に鍛えられ、ライバルに打ち勝つ

プロ2年目の1979年は97試合出場と、捕手の中では最多出場でしたが打率.208と低迷します。チームも5位と惨敗し、オフには伝説と言われた伊東キャンプが行われました。巨人の新世代を担う投打の若手18名が選抜され、地獄の特訓が始まります。捕手としては、山倉和博と笠間雄二だけがメンバーとして参加し、肉体的にも精神的にもみっちり鍛え上げられました。

すると1980年1月、笠間がトレードに出され、同年は山倉が127試合に出場します。チームは3位に終わりましたが、初めて規定打席に到達して、打率.246、17本塁打、52打点と課題の打撃面で大きな成果を見せました。さらにリードもさえて、チーム防御率を3.85から2.95へと大きく向上させます。盗塁阻止率も.425という高い数値をたたき出し、正捕手への道を歩み始めました。

巨人正捕手として3年で2度のリーグ優勝に久々の日本一も達成

1981年、巨人監督に藤田元司が就任し、伊東キャンプで若返った主力たちが中心となってV9以来の日本一を奪還します。山倉和博は、さらなるチーム防御率の改善、そして盗塁阻止率.420など守り面で大きく貢献しました。打率.205と低い数字でしたが、2本の満塁本塁打を放つなど、意外性の男や恐怖の8番打者として恐れられます。同年はオールスターでもMVPを奪い、ともに初となるベストナイン、ゴールデングラブ賞を受賞しました。

翌年もキャリアハイの129試合に出場して正捕手の座を守りましたが、打率.196と規定打席に到達しての1割台の打率という不名誉な記録を作ります。しかし、リード中心の守備面で信頼から得ており、正捕手の座は安泰でした。そして1983年は、打率.254と持ち直したばかりか、再びチームをリーグ優勝に導きます。前々年同様、ベストナインとゴールデングラブ賞をダブル受賞し、勝てる捕手へと成長しました。以後、巨人正捕手として毎年のように100試合以上に出場し、扇の要の役割を担い続けます。1985年には打率.273と確実性も増していました。

攻守に大活躍してリーグ優勝し、巨人捕手史上初のMVPを獲得

1984年に王貞治監督が就任しても、山倉和博は引き続いて正捕手を任されます。しかし、Aクラスを保持するも、就任3年間で一度もリーグ優勝すら実現できませんでした。優勝が至上命題となった王監督4年目、山倉は攻守でチームを牽引し、見事に優勝に導きます。2年目エースの桑田真澄を中心に投手陣をまとめあげ、リーグトップのチーム防御率3.06を成し遂げました。

さらに、打撃でも巨人捕手史上最多の22本塁打を放つなど大きく貢献します。それを物語るリーグ最多の24敬遠と、まさに史上最強の8番打者となりました。同年は、桑田が最優秀防御率、篠塚利夫が首位打者、主砲・原辰徳も34本塁打、95打点という好成績を残した中、山倉がシーズンMVPに選出されます。巨人史上初めての捕手によるMVP獲得というまさにキャリアハイのシーズンを過ごしました。

中尾孝義らライバル争いに敗れ、若手の台頭もあって現役引退

1988年、怪我のためベテラン有田修三に正捕手の座を譲ります。1989年からは、新たに中尾孝義が中日から移籍し、ライバルとして台頭しました。しばらく併用が続いていましたが、中尾が斎藤雅樹を強気なリードでエースに成長させたことで、山倉和博の出場機会は激減していきます。同年はわずか46試合出場に留まり、最終決戦の日本シリーズでも1度守備固めで出場しただけで、チームの日本一には貢献できませんでした。1990年は、若手の村田真一が頭角を現したため、44試合出場に終わります。1980年から8シーズン連続で100試合以上出場してきましたが、3年連続で100試合出場を達成できず、同年限りで現役引退を決意しました。

それでも巨人で一時代を築いた功績は大きく、1993年から6年間の間、巨人一軍バッテリーコーチに就任します。その後、解説者生活を続けた後、2011年に福岡ソフトバンクホークスのコーチに就任しました。しかし、病気を理由に1年持たずして退団すると、以後ユニフォームを着ていません。


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