ヤオ・ミン(姚明)について

名前 ヤオ・ミン(姚明)
生年月日 1980年9月12日
中国
出身 上海市
プロフィール 父は上海バスケットボールチーム代表選手、母は中国ナショナルチームのキャプテンを務めたバスケットボール一家に生まれる。10歳でバスケットボールを始め、頭角を現す。13歳で上海のジュニア選抜に選ばれ、17歳の時に中国プロリーグ(CBA)に所属する上海シャークスに入団、センタープレーヤーとして活躍。1999年マイケル・ジョーダンが主催するキャンプに参加し、世界的に注目される。2000年CBAのリバウンド、ダンク、シュートブロックの3冠王に輝く。同年のシドニー五輪ではチーム最年少の中国代表に選出される。各国の代表選手中、226センチと最も背が高く、“万里の長城”と呼ばれた。2002年ドラフト1巡目全体1位指名で米国プロリーグ(NBA)のロケッツに入団。米国の高校、大学でプレー経験のない米国籍以外の選手が1位指名を受けたのはNBAドラフト誕生以来初めてで、史上3人目の中国人NBA選手となった。2003年ファン投票でオールスターに初選出。2004年アテネ五輪では開会式で中国選手団の旗手を務める。同五輪は8強。2005〜2006年シーズンに1試合平均20得点10リバウンドを突破。2008年北京五輪では開幕セレモニーで聖火を手に天安門広場を走った。成績は8強。左足首の疲労骨折で2009〜2010年シーズンを棒に振り、復帰した2010〜2011年シーズンも開幕5戦目で同じ場所を痛めて残りを全休。2011年7月現役を引退した。NBAでは8季プレーし、486試合に出場。ポジションはセンターで、1試合平均19得点、9.2リバウンド。中国だけではなく世界中で人気を博し、オールスター戦に8回選出された。引退後は古巣上海シャークスGMとなり、慈善活動も続ける。

バスケットボール界のサラブレッドが鮮烈デビュー

ヤオ・ミン(姚明)が生まれ育った家はバスケットボール一家でした。父は上海のバスケットボールチームの元選手で身長は208センチ、母親も中国のナショナルチームに所属していた選手で、彼女もまた188センチの長身選手。そのためヤオは幼少期から恵まれた体を持っていました。ちなみにヤオの出生時の体重はなんと22ポンド(約10キロ)。スケールが桁違いなことがわかります。

そんなバスケットボール一家のもとに生まれたヤオは10歳からバスケットボールを始めます。この頃になるとヤオの身長はすでに180センチを超えていました。もともと長身の選手が有利なバスケットボールではヤオの身長は圧倒的な武器となり、この年代のバスケットボール界では圧倒的な戦績を残していきます。

そして身長が2mに到達した13歳のころ、ヤオは上海のジュニア選抜チームに選出されます。ここでもヤオの活躍はすぐに知れ渡ります。ましてや父も母もバスケットボール選手だったという生粋のサラブレッドであるヤオはプロからも注目される選手となります。そして17歳になった97年、ヤオは地元上海のチームである上海シャークスと契約を交わし、プロバスケットボール選手になりました。

ジョーダンの薫陶を受けて急成長

17歳にしてプロ入り選手となったヤオ・ミン(姚明)。ポジションもすぐに与えられ、身長をフルに生かせるセンターのレギュラーを掴みました。ルーキーイヤーとなった97-98シーズンは1試合平均で10得点、9リバウンドを記録して頭角を現しました。

しかし、身体が大きすぎるヤオはバスケットボール選手としては最高に思われますが、身体が大きすぎるがゆえに故障に見舞われることもしばしば。翌シーズンは足の故障のためにシーズンの大半を棒に振ることになります。

このころのヤオは中国内では知られた存在でしたが、世界的にはまだまだ無名の選手でした。それが飛躍的に知名度を上げたのは故障から明けた99年。バスケットボール界のレジェンド、マイケル・ジョーダンの指導を受けたことからでした。ジョーダンが主宰するキャンプに参加したヤオは世界中のどの選手よりも圧倒的なスキル、体格を生かしたパワープレイでジョーダンを感心させ、次代のスーパースター候補として大いに騒がれることに。同時にバスケットボールの本場アメリカのNBAの各チームから移籍を打診されるほど、注目が上がりました。

ジョーダンの薫陶を受けたヤオは成長を遂げ、99-00シーズンは絶好調。1試合平均21得点、14リバウンドの成績を挙げます。さらにナショナルチームにも選出されたヤオは福岡で行われたFIBAアジア選手権に中国代表として出場し、チームを見事に優勝へと導きました。

ヤオにとって、中国在籍時代のベストシーズンとなったのが00-01シーズン。この時のヤオは1試合平均27得点、19リバウンドと言う圧倒的な成績を残して、リバウンド、ダンク、シュートブロックの三冠王に。この活躍がもとで20歳にしてMVPを獲得します。さらにこの年に行われたシドニーオリンピックではチーム最年少の中国代表に選出されました。ヤオの身長はどの代表の選手よりも高い226センチ。そのためヤオは「歩く万里の長城」と称され、世界中から注目を集めるようになりました。

NBAオールスター、北京五輪に出場!

ヤオ・ミン(姚明)にとって、中国バスケットボールリーグでやることはもはやなくなってきていました。世界最高峰のバスケットボールリーグであるNBAへ挑戦したいという思いを持つようになり、その憧れは日に日に強くなっていきました。

また、NBAチームもまたヤオを獲得したいというチームが増加。ヤオは年齢的にNBAのドラフトにかけられることが判明。02年のドラフト会議はまさにヤオを獲得できるかどうかがポイントになったと言われています。

ドラフトでヤオを獲得できた幸運なチームは、ヒューストン・ロケッツ。1巡目で選手を選ぶ権利を持っていたロケッツは迷うことなくヤオを選択。バスケットボールの本場アメリカのバスケットボールリーグの最大手であるNBAがアメリカでのプレー経験のない選手を全体1位で指名したのは史上初のこと。中国人史上3人目のNBAプレーヤーはアメリカに認めさせた真のバスケットボール選手となりました。

背番号「11」を与えられたヤオはルーキーシーズンからオールスターゲームに選出されるなどファン人気も抜群。2シーズン連続で全試合に出場する活躍を見せました。NBAチームに所属しながらFIBAアジア選手権の際には戻ってきて、03年の金メダル獲得など、中国代表の主力選手であることには変わりありませんでした。

そして迎えたオリンピックイヤーの04年、アテネオリンピックに出場したヤオは開会式で旗手を務めただけでなく、1試合平均20.7点、リバウンドは大会最多となる9.3回をマークして、中国代表をベスト8入りさせる原動力になりました。もちろんロケッツでも活躍し続け、この年から加入したトレイシー・マグレディとのコンビでチームの勝率を6割にまで上げる活躍を見せました。

しかし、ヤオは翌年以降、足の故障に見舞われるようになり、毎年のように20~30試合は欠場するように。それでもヤオの実力は相当なもので、05-06シーズンは1試合平均20得点、10リバウンドを達成するなど、NBAでもその実力を見せていきました。

度重なる故障には勝てず、引退へ

08年はヤオ・ミン(姚明)にとって特別な年になりました。この年にオリンピックが開催されたのはヤオの出身地である中国。北京オリンピックに出場することがヤンのモチベーションとなり、実際にヤオは開幕セレモニーで聖火を片手に走るといったパフォーマンスで大いに盛り上げました。肝心のチーム成績もヤオはチームをベスト8に導く大活躍を収めています。

オリンピックに出場後もヤオの成績は落ちず、08-09シーズンは77試合に出場して、プレーオフにも出場。ところがカンファレンス・セミファイナルで対戦したロサンゼルス・レイカーズ戦の2戦目で左足首を負傷しヤオはそのまま欠場することになりました。このケガはヤオにとってかなり重症なもので、翌09-10シーズンを全休するほどのものでした。

復帰した10-11シーズン、ヤオはそれまでの故障癖をもとに、出場試合数を制限してのシーズンに臨むという万全な体制を整えましたが、レギュラーシーズン5戦目にしてまたも故障が発覚。これでシーズンを棒に振ることになりました。

度重なるケガがもとでヤオは翌11年の7月、現役引退を発表。中国の英雄としてはあまりに寂しい幕引きでしたが、ヒューストン・ロケッツはヤオの功績をたたえて、背番号11を永久することを発表。ヤオの名は今もなお、バスケットボール界ではレジェンドとして語り継がれています。


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