名前青島健太(アオシマケンタ)
生年月日1958年4月7日
日本
出身新潟県
プロフィール春日部高から慶大に入り、野球部主将となる。1979年秋のシーズンでは6本塁打、22打点の新記録を樹立。卒業後、東芝を経て、1984年ドラフト外でヤクルトに入団。

1985年5月対阪神戦で代打として史上20人目の初打席初本塁打を記録。即戦力の大型内野手として期待されたが、成績がふるわず、1989年引退。

のち日本語教師養成学校に通い、オーストラリアに約半年間赴任。帰国後の1990年4月からスポーツライターとしての活動を始める。1993年4月よりNHK衛星テレビ「BSスポーツニュース」キャスターを務める。他にテレビ「スポーツ十番勝負」など。

通算成績は96試合、82打数15安打、2本塁打、5打点、0盗塁、打率.183。春日部高卒、慶応義塾大学卒、右投右打、180cm、76kg

春日部高時代、文武両道を実現させ、2年時には秋季大会優勝

青島健太は、新潟県で生まれて、埼玉県草加市で育ちます。子どもの頃から、身長が大きく、小学生の頃から野球を始めました。中学でも野球を続けていましたが、医者になることを強く望む両親に対して高校では野球部に入らないと約束してしまいました。進学校の県立春日部高校に入学しましたが、内緒で野球部に入部します。しばらく続けていましたが、自身の活躍が新聞に掲載されたことで、ついに両親にばれてしまいました。

勉学をおろそかにしないことを条件に、野球を続けることを認めてもらいます。そして、2年時には埼玉県秋季大会を制して、関東大会へ挑みました。神奈川県1位の横浜商業を破りましたが、準決勝で小山高校に敗れてセンバツ出場確定に漏れて、補欠校となりました。繰り上がり出場は実現できず、3年夏の予選も県大会で敗戦したため、甲子園出場は泡と消えました。

社会人でさらに成長し、都市対抗優勝や日本代表として活躍

高校卒業後は、慶應義塾大学法学部政治学科へと進学します。野球部では中軸を務め、特に1979年秋季リーグでは、勝負強さを見せました。6本塁打を放つなど、現在でも東京六大学野球リーグのシーズン記録でもある22打点(12試合)をたたき出します。4年間で、一度も優勝を味わうことはありませんでしたが、74試合に出場して、打率.304という数字を残しました。

1981年、東芝に入社して社会人野球の仲間入りをすると、アマ野球界で名を馳せていきます。ルーキーでレギュラー選手となると、都市対抗野球大会にも出場していきなり準優勝を経験しました。翌年には日本代表として、アマチュア野球世界選手権にも出場します。1983年の都市対抗では、チームの4番打者として優勝にも貢献しました。同年は、日本選手権でも準優勝して優秀選手となるなど活躍がとまりません。ロサンゼルス五輪日本代表メンバーの一員として予選を戦いましたが、本戦メンバーからは漏れてしまいした。社会人では、野球を辞めるつもりでしたが活躍し続けたことで逆に自信がうまれ、とことんやってみたいという欲求が沸いてきます。そして終身雇用という会社を後にして、ドラフト外でヤクルトスワローズへの入団が決まりました。

ヤクルトにドラフト外入団し、初打席初本塁打も5年で現役引退

1985年、青島健太は27歳という遅咲きでプロ野球の世界へ飛び込みます。同年のセ・リーグは、阪神タイガースが開幕早々にバックスクリーン3連発するなど開幕ダッシュしました。一方、ヤクルトは4月を2勝11敗1分けと、大きく出遅れます。最下位に転落して、早くも5位との差が開き始めた5月、青島は一軍初出場しました。首位を走る阪神との対戦でしたが、5回までに5-2とリードした6回裏、代打で登場するとプロ野球史上20人目となる初打席初本塁打という最高のデビューを飾ります。翌日には、1番三塁手として初の先発出場の機会も与えられました。その後は、代打出場がメインとなりましたが、シーズン終わりには4試合連続スタメン起用されます。こうして、ルーキーイヤーは、24試合に出場しました。

翌1986年は、14試合出場で与えられた打席もわずか8打席に終わります。プロ3年目の1987年は58試合に出場して、プロ2本目の本塁打を放ちました。社会人時代の金属バットから、木製バットに変わりましたが、その対応ができず2年連続で打率1割台に終わります。結局、その後一軍昇格するチャンスは訪れず、1989年限りで現役引退を決意しました。

オーストラリアでの経験を糧に、スポーツキャスターとして活躍

何も爪痕を残すことが出来ずプロ野球界を去ると、野球から離れるためオーストラリアに渡ります。日本語教師として新たな人生を歩み始めましたが、元野球選手ということが現地の人にわかると、教えを請われました。野球から離れるために海を渡ったはずが、まさかの状況に戸惑います。しかし、ボロボロの用具で野球を楽しむ子どもたちに接するうちに、スポーツの素晴らしさを再認識させられました。

1991年帰国すると、当時の体験をきっかけにスポーツジャーナリストに転身します。1993年からは、NHKの「BSスポーツニュース」でキャスターを務めるようになりました。その後も、TBS系の「JNNスポーツ&ニュース」でも3年間キャスターを任されるなど、この世界で大きな存在感を放ちました。

社会人野球チームの監督にも就任し、都市対抗野球大会へ導く

2005年からは、自身も野球に大きく関わるようになります。新潟県魚沼市の硬式野球チーム「ウェルネス魚沼」の監督に就任しました。かつて身を寄せたオーストラリア出身の選手が主体のチームで指揮を執りましたが、都市対抗予選で敗退するとともに選手が帰国し、事実上の解散となりました。

監督辞任直後、今度は社会人野球「セガサミー」野球部の監督に就任します。1年目での都市対抗初出場は叶いませんでしたが、2年目の2007年は東京都第3代表の座を掴みました。そして、JABA千葉市長杯争奪野球大会で優勝して、チームとして初のタイトルを置き土産に監督を退任します。その後も、「J SPORTS ワイド」のキャスターを務めるなど、スポーツに積極的に関わり、鹿屋体育大学、流通経済大学、日本医療科学大学の客員教授としても幅広い活動をしています。

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