名前浅利純子(アサリジュンコ)
生年月日1969年9月22日
日本
出身秋田県鹿角市
プロフィール高校で本格的に陸上を始め、卒業後、マラソン選手を目指し、1988年大阪・ダイハツに入社。

1991年全日本女子20キロレースで日本歴代2位の記録を出し優勝。1992年大阪国際女子マラソン6位、1993年同大会日本タイ記録でマラソン初優勝。同年8月世界陸上シュツットガルト大会で日本人女子初の金メダルを獲得。

1994年1月大阪国際女子マラソンでは日本最高記録となった安部友恵、藤村信子に1秒差で破れ3位。1995年10月ニューヨーク・ハーフマラソンで優勝。同年11月東京国際女子マラソンでは38キロ手前で転倒するアクシデントに見舞われながら、逆転優勝を飾り復活。

1996年アトランタ五輪では17位。1998年大阪シティーハーフマラソン優勝。同年東京国際女子マラソン優勝。2000年大阪国際で自身初の途中棄権。

2001年引退、後進の育成にあたる。文部省スポーツ功労者、エイボン女性年度賞、日本スポーツ賞。花輪高卒

高校卒業後、ダイハツに入社してマラソンを本格的にスタート

浅利純子は、秋田県鹿角市に生まれ、花輪高等学校入学後に本格的に陸上を始めます。1988年3月に高校を卒業すると、ダイハツに女子陸上部1期生として入社し、マラソン選手を目指しました。1989年11月には、神戸全日本女子ハーフマラソンで優勝と頭角を現します。そして1991年1月には、初マラソンとして大阪国際女子マラソンに挑み、2時間37分1秒で12位となりました。

チームには、2歳年下の小鴨由水も台頭し始め、1991年10月の全日本実業団選手権大会10000mでは小鴨が10位、浅利が16位と切磋琢磨します。同年11月の神戸全日本女子ハーフマラソンでは、二人がゴールまで競り合いましたが、当時日本歴代2位の1時間07分03秒で2度目の優勝を飾りました。

バルセロナ五輪日本代表を逃し、後輩・小鴨由水の付き人を務める

1992年のバルセロナ五輪が近づき、1991年8月の世界陸上で銀メダルを獲得した山下佐知子がまず代表に当確します。そして、1992年1月、2番目の選手に入るために選考レースであった大阪国際女子マラソンに出場しました。後輩の小鴨由水は、浅利純子をサポートするために、ペースメーカーとして出場します。決められたペースを守り、風よけの役割を守っていましたが、レースはまさかの展開となりました。

浅利が後れを取ってしまい(6位)、小鴨は代表選考のライバルでもあった松野明美すらかわしてまさかの初出場初優勝してしまいます。当時世界10位のタイムであり、初マラソンの世界最高記録を塗り替えたため、一転して小鴨が五輪代表に選出されました。その後、3番目の代表は有森裕子が選出されて世間は騒然となります。その騒動の中、浅利は後輩・小鴨の付き人でバルセロナ行きという屈辱を味わいました。

バルセロナの屈辱を胸に、世界陸上で日本女子初の金メダル獲得

浅利純子は、バルセロナの悔しさを胸に、アトランタ五輪での金メダルを目標に立ち上がります。1993年は、1月に全国都道府県対抗女子駅伝競走に大阪代表の一員として出場すると、2区で区間賞を取る走りを見せて、京都の6連覇を阻止する原動力となりました。同月に自身3度目の大阪国際女子マラソンに出場すると、ついに初優勝を飾ります。安部友恵との一騎打ちとなりましたが、競技場に入ってトラック最後の直線で突き放しました。

そして同年8月、日本人女子として初の快挙を成し遂げます。世界陸上に参戦して、マヌエラ・マシャド(ポルトガル)、安部と3人の先頭集団でしたが、後半36kmで浅利がスパートをかけました。すると一気に独走状態となり、1位でゴールテープを切ります。当時、五輪、世界陸上を通じて、日本人女子初の金メダリストになりました。1994年1月、4年連続で大阪国際女子マラソンに参戦します。安部、藤村信子と3人による大根戦となり、1秒差の3位に終わりましたが、2時間26分10秒のタイムは自己ベストでした。

アトランタ五輪選考レースで、アクシデントを乗り越えて逆転優勝

その後、不調が続き、しばらくの間マラソンから遠ざかります。その間に、目標であるアトランタ五輪が近づき、選考レースのひとつ北海道マラソンを制した有森裕子の2大会連続出場が現実味を帯びました。浅利純子は、1995年11月の東京国際女子マラソンに照準を絞ります。1年10ヶ月ぶりのマラソン出場は、終盤に波乱のドラマが待ち受けていました。

レースは、終盤まで、優勝候補のエゴロワを始め、吉田直美、原万里子、後藤郁代と浅利の5人が先頭集団を形成します。しかし、38km地点で浅利、後藤、吉田が揃って転倒するアクシデントが起きました。転倒を免れた原が独走状態となりましたが、そこから浅利が執念で追走します。競技場入り口でついに原を捉えるとトラック勝負となり、残り200mでスパートをかけて見事な優勝を実現しました。

金メダル有力候補としてアトランタ五輪に挑むも、17位に終わる

浅利純子はついにアトランタ五輪代表権を掴み、終盤のデッドヒートに強いことから金メダル有力候補にあげられます。2大会連続メダルを狙う有森裕子、最後の選考レース・名古屋国際女子マラソンで強烈な勝ち方を見せた真木和の3人でアトランタ五輪に挑みました。

4年越しの夢を叶え、メダルも期待された浅利でしたが、本番では再びアクシデントに見舞われます。先頭集団につけていましたが、11km過ぎに日本勢として最も先に遅れ始めました。裸足でシューズをはいたため、5km地点でマメがつぶれ早くから出血に苦しみます。痛みとの戦いが延々と続き、ジリジリと後退してメダル獲得の可能性はなくなりました。それでも浅利の頭に途中棄権という文字はなく、何とかゴールまでたどり着きます。有森が2大会連続メダル獲得となる3位、真木が12位に入る中、日本勢最下位の17位に終わりました。

東京国際で復活優勝するも、シドニー選考レースで棄権して引退

アトランタでの惨敗から、4年後のシドニーを目指します。ボストンマラソン6位(1997年)、ロッテルダムマラソン2位(1998年)を経て、1998年11月、東京国際女子マラソンに挑みました。市橋有里とのトラック勝負となりましたが、残りわずか30mで逆転して優勝し復活を印象付けます。しかし、1999年の世界陸上では、故障を抱えての出場でもあり、16位で終わりました。

そして2000年1月、シドニー五輪代表選考レースである大阪国際女子マラソンにエントリーします。しかし、5km地点で先頭集団から遅れると、太ももがつってしまい、15km地点でフルマラソン初のリタイアをして五輪連続出場は絶たれました。1年後に現役引退を表明して、ダイハツ陸上部コーチへ就任し、2005年にはダイハツも退社します。その後はチームミズノアスレティックに加入し指導者を続ける一方、結婚、出産し現在は三児の母となりました。2007年からは、「浅利純子杯争奪鹿角駅伝」を開催しゲストランナーとして参加します。2015年4月には鹿角市役所生涯学習課所管の学校支援コーディネーターに就任しました。


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