名前山田卓也(ヤマダタクヤ)
生年月日1974年8月24日
日本
出身東京都杉並区
プロフィール桐蔭学園高時代は2、3年とつづけて全国選手権に出場。1993年駒沢大学に進み、1995年の関東選手権、総理大臣杯、インカレの初優勝に貢献。同年のユニバーシアード代表のレギュラーとして日本の初優勝にも貢献。

1997年ヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)に入団。1年目からレギュラーとして出場。1999年からは高校時代の恩師・李国秀が総監督に就任し、主力として出場。2002年主将、2003年にはMFにコンバートされてチーム2位の10ゴールし、日本代表にも初選出。2004年天皇杯優勝。2005年、17位でJ2降格。

2006年セレッソ大阪に移籍。2007年、横浜FCと移籍するも、3期連続でチームのJ2降格を経験。2009年サガン鳥栖でプレー。

2010年、トライアウトを受験しFCタンパベイ入団。2012年、完全フル出場してベストイレブンを受賞し、初のリーグ優勝を実現。2015年、FC今治へ電撃移籍。2016年からは、奈良クラブにてプレー。同年チームを退団。

国際Aマッチ 4試合出場0得点。駒沢大学卒。177センチ、76キロ

桐蔭学園から駒澤大学という黄金ルートでサッカーの実力をつける

山田卓也は、東京都杉並区で生まれ、幼稚園時代から「宝陽幼稚園サッカークラブ」に入ってサッカーを始めます。小学生になると「武蔵丘FC」でサッカーをやりつつも、水泳や陸上など様々なスポーツで結果を残していました。中学からは町田市に移り、サッカー部に入りましたが、陸上部の大会に参加すると走り高跳びで優勝するなど卓越したジャンプ力を披露します。そして、高校進学には李国秀監督就任後一気に強豪校となった桐蔭学園を選択しました。

少数精鋭のチームは実力を発揮して、1991、1992年度と2年連続で全国高校サッカー選手権大会に出場します。しかし、本戦ではともにPK戦で敗れるという悔しい思いをしました。そして当時、確立されたルートでもあった駒澤大学へ進学します。3年時の1995年は、一気に歴史を塗り替えて、総理大臣杯全日本大学サッカートーナメント、全日本大学サッカー選手権大会(大会ベストDF)をともに初優勝しました。同年、ユニバーシアード代表に選出されると、レギュラーとして全試合に先発出場します。世界の強豪を次々に下して、日本初の金メダル獲得に大きく貢献しました。

ヴェルディ中心選手として長年プレーするも、低迷期を脱せず

1997年から、ヴェルディ川崎に入団してJリーガーとなります。いきなりリーグ戦に22試合出場するなど、即戦力ルーキーとして活躍しました。翌シーズンは、7試合と出場試合数を激減させましたが、高校時代の恩師・李国秀が総監督に就任した1999年から主力として起用されます。すると、林健太郎、米山篤志、小林慶行ら桐蔭学園OBの選手たちが働いて、Jリーグ1stステージ2位に、天皇杯でもベスト4を達成しました。

2000年シーズンで李総監督が退任し、翌年からは東京ヴェルディ1969としてリスタートを切ります。監督が交代しても、山田卓也は安定した守備力と強靭な肉体で不動のレギュラーDFを務め、ほとんどの試合に出場しました。2002年からチームの主将を任されると、2003年には得点能力を評価されて、攻撃的MFにコンバートされます。チーム2位でキャリアハイの10ゴールを奪うなど監督の起用に応え、日本A代表にも選出されました。

2004年、チームは天皇杯を8年ぶりに制覇しましたが、チーム力が問われるリーグ戦では低迷から脱せず、2005年は17位と惨敗します。Jリーグ創世記に黄金時代を築き上げたチームが、まさかのJ2降格という憂き目に遭いました。

どのチームでも主力を務めるも、3年連続でチームがJ2降格

ヴェルディは、大量の主力がチームを離れ、山田卓也もセレッソ大阪への移籍が決まります。当初は、ボランチとしてゲームメイクを任されるなど前年5位を確保したチームの勢いを持続させました。しかし、後半に入ると低迷が続き、自身も怪我による長期離脱で貢献できません。結局リーグ17位でJ2降格となり、シーズン終了後チームを退団しました。

2007年からは、初めてJ1昇格を果たした横浜FCへ途中入団します。しかし、戦力差は顕著で、前半戦最下位で終わると、そのまま1年でJ2へ逆戻りとなりました。山田自身、3年連続で所属チームがJ2降格を経験し、翌2008年は初めてJ2でプレーします。試合数が多いJ2で、31試合出場しましたが、チームの低迷は留まらず1年でのJ1復帰はおろか、J2でも10位と惨敗しました。2009年は、同じJ2のサガン鳥栖へ移籍します。全51試合中の43試合出場というまさにレギュラーとして過ごしましたが、J1昇格を果たせず、1年でチームを去りました。

北米タンパベイで初の海外プレーを経験し、チームの優勝に貢献

2010年1月、アメリカフロリダ州のタンパベイを本拠地とするタンパベイ・ローディーズのトライアウトに参加します。2008年に発足した若いチームであり、USSF2部の船出のタイミングでチームに加わりました。2011年からは、北米サッカーリーグ(NASL)に参戦し、早速チームの主力となります。同年は3位に終わりましたが、2012年はリーグで唯一のフルタイム出場を達成して、ベストイレブンに選出されました。リーグ2位からプレーオフに進出すると、見事優勝も飾ります。2014年まで北米で5シーズンをプレーしました。

元日本代表監督の岡田武史から熱烈オファーを受けてFC今治入団

2015年、タンパベイで6シーズン目のプレーを考えていましたが、FC今治へ電撃加入します。タンパベイでキャンプする日本チームを探していたところ、姉妹都市である今治を本拠地とするFC今治に声をかけました。元日本代表監督の岡田武史がクラブオーナーに就任しており、勧誘に快く応じてくれましたが、帰国後の開口一番で自らがクラブへ誘われます。その後、再びフロリダへ戻っても熱烈オファーは続き、その熱に折れて入団を決意しました。わずか6ヶ月間という短い契約でしたが、山田卓也はリーダーシップを発揮して存在感を示します。同年において、目標としていたJFL昇格は実現しませんでしたが、確かに足跡を残しました。

FC今治との契約が終了すると、2016年からはJFL所属の奈良クラブと契約し現役を続行します。かつてのように毎試合出場とはいきませんでしたが、リーグ戦13試合に出場し1ゴールを決めました。しかし、1年でチームを去ることが決まり、2017年から念願のJFL昇格を決めたFC今治との対戦は実現しませんでした。


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