加藤博一について
名前 | 加藤博一 |
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生年月日 | 1951年10月9日 |
国 | 日本 |
出身 | 佐賀県多久市 |
プロフィール | 昭和45年ドラフト外で西鉄入り。2年目にスイッチヒッターに転向。51年阪神に移籍し、55年レギュラーに定着。58年大洋(現・横浜)へ。61年にはプロ入り17年めで初めてオールスターの選手に選ばれた。平成2年引退。実働16年、1068試合出場、2321打数628安打、打率.271、本塁打23本、盗塁169。現在、フジテレビの解説者をつとめる。著書に「生きぬいた21年」
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ドラフト外で入団し、燻った二軍生活
加藤博一が生まれ育ったのは佐賀県。野球を始めるとその才能ですぐに頭角を現しますが、加藤の個性を際立たせていたのはなんといってもその俊足。あまりの足の速さに加藤は高校時代にはたびたび陸上部の助っ人として駅伝大会に出場するほどでした。
また、プロでは通算23本塁打とあまり長打のイメージのなかった加藤でしたが、この頃の加藤はスラッガーとしても鳴らし、多久工業高校に隣接していた警察署では加藤が放つ打球でガラスが割られることがしばしばあったため、急遽ネットを増設。後に「加藤ネット」と称されるようになるなど、その野球センスの高さは折り紙付きでした。
そんな加藤は高校を卒業した当時、国士舘大学や社会人野球チームから声がかかるなど、野球の腕を見込まれていましたが、加藤が選んだのは高卒でのプロの道。しかも地元球団の西鉄ライオンズを目指しました。当時の西鉄は黒い霧事件の真っただ中にいたため選手数が絶対的に少なく、一人でも多くの選手を獲得したいという思いからテスト入団選手も多く採用。その流れに乗った加藤も俊足を買われて69年のテストに合格し、この年のドラフト会議でドラフト外指名を受けて入団しました
入団早々、加藤は俊足を生かすのと、非力な打撃を改善するために打撃コーチからスイッチヒッターへの転身を言い渡され、転向することになります。このころの加藤は野球だけではとても食べていけないということでオフシーズンになるとあらゆるアルバイトをして生計を立てていました。この時に得たハングリー精神がのちに成功するきっかけになったといっても過言ではないでしょう。
日ごろのたゆまぬ努力の賜物で、入団5年目の74年には二軍で打率3割3分9厘をマークしてウエスタンリーグの首位打者として頭角を現しますが、当時の加藤は一軍では全くと言っていいほど出番がなく、さらに西鉄も経営状況が悪化。このため加藤は76年にトレードで阪神タイガースへと移籍します。
江川卓に強い男として、関西圏で知られる存在に
生まれ育った九州を離れて、初めて関西圏で生活をすることになった加藤博一。生活環境が変わったことでプレースタイルに影響が出るかと思われましたが、もともと明るい性格だった加藤は関西の風土になじみ、あっという間にチームメイトたちと仲良くプレーするように。移籍当初は相変わらず二軍暮らしが続きましたが、79年頃からレギュラーに定着。この時加藤のキャッチコピーは「江川卓に強い男」と言うものでした。
この年のシーズン打率は2割3分1厘と決して高いわけではありませんが、加藤はなぜかこの年から巨人で投げていた江川に対して相性抜群。初アーチも甲子園球場で江川から放ちました。空白の一日事件で阪神戸は少なからず因縁のある巨人の投手を打ち崩せる男として阪神ファンから絶大な支持を得た加藤は次第にチームの人気選手のひとりとなっていきました。そして80年には自身初となる打率3割を記録して、盗塁もリーグ2位となる34盗塁をマーク。さらに性格の明るい加藤は81年オフのファン感謝デーでチームメイトとともに得意のモノマネを披露して一気にファンを虜にしました。
それだけに82年オフ、野村収とのトレードで大洋ホエールズへと移籍することになった時は多くの阪神ファンの涙を誘いました。加藤自身もこのトレードを不服とし、当時の監督の安藤統夫に反論するほどでしたが、プロ野球選手である以上トレードは決定事項。加藤は断腸の思いで大洋への移籍を決断しました。
スーパーカートリオの一員として大活躍
新天地、大洋ホエールズの一員となった加藤博一ですが、移籍初年度の83年は故障にも見舞われて80試合に出場しましたが、打席も同じ80打席のみ。このままスーパーサブ的な扱いで終わるかとも思われましたが、故障が癒えた84年には2番打者に定着。そして加藤の名を不動のものにしたのは85年、新監督として近藤貞雄が就任したことでした。
この頃の大洋には屋敷要、高木豊と加藤のほかに俊足選手が揃い、この3名を上位打線に置くことで得点が上がると考えた近藤監督は1番高木、2番加藤、3番屋敷の上位打線を組んでスポーツカートリオと命名。後にメディアがスーパーカートリオと称したためにこちらの方が定着しましたが、加藤はその中でも重要な2番打者を任されました。
お互いがお互いを認め合っていたこの3名は試合前には何時間もビデオ室にこもり、相手投手の癖やモーションを研究し、いかに早いスタートを切ることを心がけていました。この3人合わせて盗塁は148盗塁。加藤自身も盗塁王のタイトルこそ逃しましたが、それでも自己最多の48盗塁&32犠打を決めて、チームに大いに貢献しました。
翌86年に加藤はプロ入り17年目にして自身はつとなるオールスターゲームに出場。またこの頃からメディアへの露出も増えて、その明るいキャラクターも相まって、全国区の人気選手になりました。
故障に見舞われ、引退へ
86年以降の加藤博一はそれまで同様に故障癖が抜けきれず、100試合以上に出場したのも85年が最後に。その後は盗塁数も次第に落ちていき、90年はわずか1盗塁。この年を限りに現役を引退しました。
現役引退後には解説者となった加藤ですが、その後、ガンにかかっていることが判明。長い闘病生活の末、08年に56歳にしてこの世を去りました。