中野信治について

名前 中野信治
生年月日 1971年4月1日
日本
出身 大阪府高槻市
プロフィール 父親は元F2ドライバー。11歳でカートを始め、16歳の時インターナショナル香港カートGPに大会最年少で優勝。平成元年F3デビュー。19歳で渡欧、数々の選手権を転戦。4年中嶋企画からF3、F3000に参戦。全日本F3での最高位は平成6年の3位(優勝1回)。8年童夢に移籍し、F・ニッポン総合6位。同年12月フランスのF1チーム、リジェ・ゴロワーズ・ブロンド(のちプロストグランプリ)とドライバーとして正式契約。9年3月の豪州GP7位でF1デビュー。同年6月カナダGPで日本人最年少の6位入賞をはたす。10年はミナルディから参戦。12年ウォーカー・レーシングと契約。同年CARTシリーズ開幕戦と第18戦で8位入賞。13年フェルナンデス・レーシングに移籍。同年CART第5戦で8位に入る。66.5キロ

カートで腕を上げ、F1デビューへ

中野信治が生まれ育ったのは大阪府高槻市。父の常治もF2ドライバーとしてのキャリアを持つ元レーサー。モータースポーツは裕福な家庭でないとできない競技と言われていますが、中野もまさにそうしたモータースポーツ界のサラブレッドとも呼べる環境で育ちました。そのため、父の引退後には中野はその遺志を受け継ぐ形で11歳にしてカートレースを始めるようになります。父譲りのテクニックとレースセンスで中野はすぐに頭角を現していきました。

最初に中野がタイトルを獲得したのは87年、香港で行われた国際カートGP。この大会に16歳で参戦した中野は、他のレーサーたちを寄せ付けず圧勝。日本人としてこのレースを初めて制しただけでなく、史上最年少での勝利を飾り、話題となりました。このレースの優勝をきっかけに、無限のワークスドライバーとして選出され、89年には全日本F3選手権レースに出場。高校卒業後の90年には中嶋企画のマネージメントを得て単身渡英。中嶋悟の家に居候をしながら、ジュニアフォーミュラカテゴリで修業を積んでいきました。

帰国後の92年、中野は全日本F3と全日本F3000に参戦しましたが、いずれも好結果を残すことができずに中嶋企画を離れると、95年からは童夢のメンバー入り。この年のフォーミュラ・ニッポンで総合6位に入ると12月にはフランスのF1チーム、リジェ・ゴロワーズ・ブロンド(のちプロストグランプリ)とドライバーとして正式契約を結び、F1デビューを近づけました。

不遇をかこったF1時代

中野信治が念願のF1デビューを飾ったのは97年、26歳のころでした。この年の成績は6位に入賞すること2回とまずまずの成績を収めましたが、チームは翌98年からプジョーのエンジンを積むことが決まっていたためか、フランス人のエースドライバー、オリビエ・バニスにチームの力を集中させ、中野はあまりテスト走行をさせてもらえないどころか、セッティングの権限さえ与えられませんでした。

その中で6位入賞2回は立派な戦績とも言えますが、これに嫌気がさしたのか、98年からは片山右京が去ったミナルディへと移籍します。ミナルディは財政難のため、苦しいシーズンを迎えましたが、その中でも中野はシングルフィニッシュを4回も決めるなど、見せ場を作ったことで高く評価されました。

しかし、99年には更なる好条件を求めた中野はジョーダンへ移籍し、テストドライバーとなります。デイモン・ヒルが引退間近ということでレギュラー昇格のチャンスを得ましたが、ヒルは現役引退を撤回したため、中野にチャンスが巡ってくることはありませんでした。そのため、中野は間もなくジョーダンからも去ります。

インディ、ルマンへ参戦

F1では不遇をかこった中野信治でしたが、転機が訪れたのは00年。ホンダからの誘いを受けた中野はアメリカのCARTに参戦。しかし、オーバルトラックの練習中にクラッシュしてしまい、その影響で脳内出血を起こすという大惨事に。結果的に3戦を欠場したのみですぐに復帰しましたが、故障の影響はかなり大きかったと言われています。

結局、中野は00年から02年までの3シーズンでCARTに参戦しましたが、最高成績は02年の4位。シリーズでは17位とまずまずの成績を収めました。この成績なら翌年も継続してレーサーとして起用されるかと思いましたが、資金難のため、ホンダが撤退。そのため中野もレギュラーシートを失うことになりレース参戦ができなくなってしまいました。

しかし、あきらめきれない中野は03年になるとインディカーのインディジャパン300&インディ500へスポット参戦。あくまでレーサーとしての活動を継続させていきました。

翌04年、中野は帰国して全日本GT選手権にチーム国光のレーサーとして参戦。ホンダ・NSXを駆って最高8位、シリーズ24位に入ったのを皮切りに、インターナショナルポッカ1000㎞レースへ参戦。この大会では2位に入るなどの好成績を残しました。この頃から中野はスポーツカーのレースにも積極的に参戦し、05年にはルマン24時間耐久レースにも参戦するようになりました。

40歳を過ぎた今でも現役一本

05年以降、中野信治はスポーツカーのレースに参戦するようになりましたが、まずはルマンの24時間耐久レースに2年連続で参加、06年にはルマンシリーズにも参戦し、最高位12位に。そして07年には全日本スポーツカー耐久選手権にも出場してシリーズ2位の好成績を収めました。

F1モナコ、インディ、そしてルマンと世界三大レースに参戦した日本人初のレーサーとなった中野はその後もルマンシリーズの参戦をメインとして、数多くのレースに参戦。40歳を超えた今でも現役のレーサーとして活躍中です。

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