名前堀幸一(ホリコウイチ)
生年月日1969年4月2日
日本
出身長崎県長崎市
プロフィール1987年春、海星高校の3番打者としてセンバツ出場も初戦敗退。

同年ドラフト3位でロッテオリオンズ入団、1989年一軍に昇格。1991年に二塁手レギュラーを奪うと、20本塁打、69打点で中距離打者として活躍。1995年には、遊撃手にコンバートされて初の打率3割と、チームのAクラスを達成。その後、貴重な内野手としてあらゆる打順を経験。

1998年には、全打順本塁打達成。2003年には、1シーズンだけで全打順スタメンを経験。同年後半は4番に固定されて、キャリアハイの22本塁打をマーク。

2005年、マリンガン打線の2番二塁手として活躍し、10年ぶりのAクラス達成。プレーオフ、日本シリーズも勝ち抜き自身初の日本一を経験。同年は、9年ぶりの打率3割を達成して、二塁手ベストナインを当時最年長で受賞。

2006年以降、出場機会が激減。2010年は一軍出場無しに終わり、同年オフ戦力外通告。フロント入りを固辞してトライアウト受験。2安打1本塁打と活躍するも獲得球団はなく現役引退。2013年から千葉ロッテ一軍打撃コーチ就任。

通算成績は2,064試合、6,788打数1,827安打、183本塁打、810打点、133盗塁、打率.269。ベストナイン1回。海星高卒、182センチ、80キロ。右投右打

3年春にセンバツ甲子園出場するも、校歌を歌えず終わる

堀幸一は、1969年、長崎県に生まれます。以後、地元で過ごして、甲子園常連校の古豪・海星高校に進学しました。前年夏に12度目の甲子園出場しており、1年時から2年連続出場を目指します。しかし、準決勝で佐世保実に完敗しました。2年夏も準々決勝敗退しましたが、新チームとなった2年秋、長崎県大会を制します。準決勝でサヨナラ勝ちして勢いに乗ると、決勝では自身も本塁打を放つなど15得点で圧勝優勝しました。続く九州大会でも見事決勝へ進出します。3番左翼手として先発出場しましたが、自身はノーヒットに終わり、チームも9回裏に逆転サヨナラで悔しい敗退となりました。

しかし九州2位の実績が評価されて、1987年春のセンバツ出場権をもぎ取ります。開幕戦の京都西との戦いとなり、3番打者として初めて甲子園の土を踏みます。好調打線が力を発揮して2度のリードを奪うも、その都度追いつかれて6回には逆転されます。堀も投手経験がありましたが、登板することなく3-5で敗れて、不完全燃焼に終わりました。春夏連続出場を目指した3年夏、県大会準決勝で大敗して夢敗れます。高校時代、投打で活躍しましたが、投手としての印象は薄いほうでした。

長打力を発揮して4番を任されるなど、二塁手レギュラーを奪う

1987年、ドラフト会議でロッテオリオンズから3位指名されて、野手として入団します。ルーキーイヤーは1年間ファームで過ごし、2年目の1989年、開幕早々に代走としてプロ初出場を果たしました。その後も、代打から出場して守備固めなど58試合の経験をつみます。守備機会は二塁手が最も多くなりましたが、一塁を除く全内野に外野手もこなすというユーティリティぶりを発揮しました。

1990年もほぼ前年と変わらない立場でしたが、1991年の開幕第2戦に5番二塁手としてスタメン出場すると、上川誠二からレギュラーを奪います。チームの主砲マイク・ディアズが不調に陥ると、堀が4番に座ることも多くありました。同年は初めて規定打席に到達して、打率.284、20本塁打、69打点という素晴らしい成績をマークします。同僚の平井光親が首位打者を獲得したため打率はチーム2位でしたが、本塁打と打点は堂々のチームトップの数字でした。

バレンタイン政権1年目、3番遊撃手としてチーム躍進に貢献

その後、貴重な中距離打者として二塁手レギュラーを守ります。そして、1995年にボビー・バレンタインが新監督に着任すると、遊撃手へコンバートされました。打順はほとんどの試合で中軸の3番を任されます。すると安定した打撃を披露し、自身初の打率3割を達成しました。首位打者を獲ったイチローの差は相当ありましたが、パ・リーグ2位の打率でチームの10年ぶりの2位躍進に貢献します。同年は、初のオールスターゲーム出場も果たして一流選手の仲間入りを果たしました。

全打順本塁打、シーズン全打順先発出場という難記録も達成

その後も長期離脱をすることなく、ロッテラインナップに当たり前のように名を連ねます。しかも堀幸一は、100試合以上にスタメン出場したのは11シーズンありますが、1つの打順で100試合出場を一度も達成していません。チーム事情に応じて、様々な打順をそつなくこなした結果であり、1998年には史上4人目となる全打順本塁打も達成しました。

2003年にいたっては、船田和英以来となる1シーズンだけで全打順先発という稀有な経験をします。後半戦は4番打者に固定されて、打率.298、キャリアハイの22本塁打、78打点という好調な打撃成績を残しました。

2塁手ベストナインに選出される活躍で、下克上日本一に貢献

千葉ロッテマリーンズ(1991年末にロッテオリオンズから改名)は、1995年にバレンタイン監督が2位を確保して以降、8年連続Bクラスに低迷していました。そして、2004年再びバレンタインが千葉ロッテ監督として復帰します。同年4位に終わりましたが、1995年以来の勝率5割達成と兆しが見えていました。2005年、若手の今江敏晃、西岡剛が台頭し、好スタートを切ります。西岡、堀幸一、小坂誠の3人を二遊間で使い分けるなど、日替わりのマリンガン打線がフィットしました。

6人の二桁勝利投手が生まれ、10年ぶりのAクラス確定、そしてプレーオフ進出を決めます。すると短期決戦に最大限力を発揮して、プレーオフ、日本シリーズも勝ち抜くという下克上日本一を達成しました。堀は、シーズン終了間際に規定打席に到達して、9年ぶりの打率3割を達成します。二塁手として初のベストナインも受賞しましたが、18年目の最年長受賞でした(当時)。

ロッテオリオンズ最後の戦士も、現役生活23年で現役引退

2006年、年齢的にも37歳とベテランの域となり、出場機会が減少し始めます。代打出場がメインとなりながらも、2007年にはチーム記録を更新する19年連続本塁打を放ちました。2009年には、代打打率4割超とさすがの存在感を見せましたが、2010年は一軍試合出場無しに終わります。同年オフ、戦力外通告とともにフロント入りを打診されましたが、現役続行を目指してトライアウトへ臨みました。

40歳を超えてトライアウトに参加すると、本塁打を含む5打数2安打という抜群の集中力を見せます。しかし、獲得に名乗りを上げる球団はなく、現役引退を表明しました。23年現役を務めた堀幸一の引退によって、ロッテオリオンズを知る選手が全て姿を消します。通算2000本安打にも、残り173本でしたが達成できずに終わりました。約2年の解説者生活を経て、2013年からは古巣ロッテの一軍打撃コーチに就任しています。


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