高木虎之介について
名前 | 高木虎之介 |
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生年月日 | 1974年2月12日 |
国 | 日本 |
出身 | 静岡県静岡市 |
プロフィール | ツーリングカーレースをしていた父の影響で4歳からレーシングカートを開始。昭和62年12歳でカートレースにデビュー。平成元年国際カート選手権優勝、2年全日本優勝。4年自動車レースに転向。5年から全日本F3に参戦、6年シリーズ6位。中嶋悟に見いだされ、同年全日本F3000に参戦、7年フル参戦し、3勝を挙げて総合2位。8年フォーミュラ・ニッポンに参戦、第5戦、6戦で優勝。同年10月F1チームのティレルとテストドライバー契約を結ぶ。9年ポルシェ・カップに参戦。同年Fニッポン第4戦で優勝。同年10月ティレルと正式契約。10年よりF1フル参戦。11年1月アロウズに移籍。同年3月開幕戦で自己最高の7位。12年フォーミュラ・ニッポンに復帰、9戦中8勝し、シリーズ初優勝。同年11月チーム・ウオーカー・レーシングと契約し、13年は米国CARTシリーズに参戦する。180センチ、61キロ
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カートで鍛えた実力で台頭
高木虎之介が生まれ育ったのは静岡県静岡市。富士スピードウェイなどのコースが近いためか、レースに関する関心が高く、中でも父はツーリングカーレースの経験者。そのため高木も4歳にしてカートを始めるなど、早い時期からレーサーとして活動していました。その後も高木は運転に慣れ始め、12歳になるとカートのレースに参加します。
そして89年になると国際カート選手権で優勝を果たしました。カートレーサーとして90年には全日本カートでも優勝し、免許を取得した92年に自動車のレースに転向して、フォーミュラ・トヨタに参戦しました。
翌93年、高木は全日本のF3選手権に参戦し、初年度から2度の入賞を果たします。最高位4位に入るなどして活躍した高木は5ポイントを挙げてランキング10位に。94年には3位に入ったのをはじめ、3度の表彰台を経験し、5度の入賞を果たしてランキング6位にまで上昇しました。
F3000で好成績を残し、話題に
F3で好成績を収めていた高木虎之介を高く評価していたのは中嶋悟。彼が代表を務める中嶋企画に高木を加えて、94年には全日本F3000選手権の第3戦目にスポット参戦。95年にはフル参戦を果たします。シーズン序盤こそ低調な成績で期待ハズレでしたが、第5戦のスポーツランドSUGOで初優勝。第9戦の富士スピードウェイでは「日本一速い男」と称された星野一義をホームストレートでアッサリとかわして優勝を飾りました。
ちなみにこのレース後の記者会見で星野は中嶋に「早くF1に行っちゃってよ」と漏らしちゃう一面も。レーサー仲間からも恐れられるほどに急成長を遂げました。さらにこの大会前に高木は「優勝したらNSXをあげる」と中嶋から言われていましたが、その言葉通り、この大会後にホンダの名スポーツカー、NSXを中嶋からプレゼントされました。
最終戦で高木はポイントランキングトップで迎えましたが、まさかのリタイア。チャンピオンこそは逃してしまいましたが、3勝してランキング2位でシーズンを終了。若手有望株として一躍脚光を浴びました。
その後はフォーミュラ・ニッポンに2年連続で参戦。いずれの年も優勝候補と目されていましたが、あと一歩及ばずチャンピオンになることはありませんでした。しかし、98年には中嶋から支援されてティレルでのF1参戦が決定。かつて星野に言われていたF1に晴れてデビューが決まりました。
圧倒的な成績でフォーミュラ・ニッポンの王者に
F1デビューを果たした高木虎之介。98年はティレルに所属してレギュラードライバーとして出場。すべてのレースで予選を通過しましたが、入賞はないまま。結局、最高順位は9位に終わりました。また、この年のティレルで高木のチームメイトになったリカルド・ロセットも低調で、チームとしても今一つの結果に終わりました。
そんな中でも日本で行われた日本GPで高木は凱旋レースを迎えました。そのため、多くのモータースポーツファンが注目しましたが、高木はレース中盤のシケインでミナルディのエスティバン・トゥエロに激突されてリタイアするという散々の結果に。しかも所属していたティレルは翌年からB・A・Rに買収されたため、この年限りで解散することになります。
移籍先として高木が所属したのはアロウズ。ここでペドロ・デ・ラ・ロサとコンビを組みましたが、この年も完走は4回、入賞なしと今一つの成績に終わりました。結局00年からはレギュラーシートを失ったため、高木は国内レースに復帰することになります。
中嶋企画に戻った高木はフォーミュラ・ニッポンに参戦しますが、ここで高木は今までのうっ憤を晴らすかのような快走を見せ、10戦中8勝と言う快進撃を見せてシリーズチャンピオンを飾りました。
後進の育成にも尽力
高木虎之介は01年、F1への復帰を目指しましたが、シートを得られず、結局トヨタの誘いを受けて、チャンプカー・ワールド・シリーズに参戦。後のF1参戦を見据えてのものでしたが、高木は高いパフォーマンスを見せることがなかったため、最後までシートを得られずに終わりました。
そのため05年から再び国内レースに専念。自らのチームを組んだ高木はここでフォーミュラ・ニッポン、SUPER GT500に参戦。フォーミュラ・ニッポンでは全盛期の走りを見せられず、精彩を欠いてしまいました。一方のSUPER GT500は立川祐路とコンビを組んでシリーズチャンピオンに輝きました。
そして09年により自身のレース活動を休止、カートショップとカートチームのオーナーになり、後進の育成に力を注ぐようになりました。10年にはSUPER GTのセルモの監督にも就任しています。