名前中谷仁(ナカタニジン)
生年月日1979年5月5日
日本
出身和歌山県和歌山市
プロフィール有功(いさお)小3年から有功少年野球クラブで捕手(軟式)として野球を始める。智弁和歌山高では1年秋から正捕手、2年春夏、3年夏と甲子園出場。2年センバツ準優勝、3年夏は全国制覇。

1998年ドラフト1位で阪神に入団。1999年5月携帯電話を左目に当てる事故があり、視力が2.0から0.08まで低下。6月左脈絡膜破裂と黄斑部出血と診断される。入団から4年間すべてをファームで過ごす。2002年、正捕手・矢野燿大の故障でプロ初出場。

2003年からは再びファーム暮らしが続き、2005年オフに楽天へ金銭トレード。2009年、野村克也監督に評価されて、キャリアハイの55試合に出場してチームの2位躍進に貢献。2010年から再び出場機会が減り、2011年オフ戦力外通告。トライアウトを経て巨人入団。2012年、初めて優勝を味わうも5試合出場に終わり同年現役引退。

引退後は巨人ブルペン捕手。第3回WBCにもブルペン捕手として貢献。以後、指導者の道をスタートさせて、2017年、母校智弁和歌山高のコーチ就任。

通算成績は111試合、173打数28安打、4本塁打、17打点、1盗塁、打率.162。智弁和歌山高卒、182センチ、84キロ、右投右打

智弁和歌山で3度甲子園に出場して、3年夏は全国制覇

中谷仁は、和歌山県和歌山市で生まれると、小学生時代から野球を始めます。有功少年野球クラブで捕手を務めると、その魅力にのめりこんでいきました。県内の野球名門校・智弁和歌山高校へ進学すると、1年秋から正捕手の座を奪います。同じく1年生投手の高塚信幸とバッテリーを組むと、秋季大会、近畿大会をともに準優勝して翌春のセンバツ出場を決めました。そして2年生バッテリーは、2年前のセンバツ優勝に続く成績を収めます。高塚は、3連投という過酷な日程にも耐えて、決勝戦までたどり着きました。しかし、4連投となった決勝では、初回から鹿児島実業に打ち込まれて敗戦します。それでも、2年生バッテリーでの準優勝はその後の活躍を大きく期待されました。

2年夏もチームは甲子園に出場しましたが、あっけなく初戦で敗れます。エース高塚はセンバツ大会の酷使で肩を故障しており、3人の継投でしのぎましたが好結果は生まれませんでした。中谷は2年秋から主将を務め、チームは打撃力に磨きをかけていきます。県秋季大会は3位、近畿大会初戦敗退で3季連続出場は逃しましたが、3年夏は、僅差の試合をことごとく制して、甲子園出場を決めました。最後の夏にチームは一丸となると、初戦の日大文理戦で19得点、続く福岡工大付戦も二桁得点と恐ろしい打撃力を発揮します。準々決勝からは接戦となりましたが、当時の大会新記録チーム打率.406、中谷自身も打率.563に好リードで一気に全国優勝を飾りました。

阪神期待の正捕手候補として入団も、不運のアクシデント

1997年ドラフト会議では、阪神タイガースから1位指名を受けて次世代の正捕手として期待されます。同期入団の井川慶(2位)、坪井智哉(4位)を抑えての1位指名という最高の評価を受けて入団しました。当時の阪神捕手は関川浩一、山田勝彦の併用でしたが、関川と入れ替わりで加入した矢野燿大が、1998年から正捕手の座を奪います。それでもBクラス脱却は出来ずに、チームとして低迷していました。

高卒ルーキー中谷仁は、ファームでじっくりスタートとなりましたが、2年目に選手生命を揺るがす大きなアクシデントに見舞われます。他人が投げた携帯電話が運悪く左目に直撃して、一時は失明危機に陥りました。最悪の事態は免れましたが、視力は大幅に低下します。その間も、矢野は正捕手の座を守り、中谷は4年間をすべてファームで過ごしました。

2002年、矢野が左肩を脱臼したため、チャンスが訪れます。5年目にしてプロ初出場を飾り初安打初打点もマークしました。矢野不在の間は、ベテラン山田、新人・浅井良らと出番を分け合います。同年は17試合に出場しましたが、打撃ではわずか1安打に終わりました。

楽天時代、野村克也監督に評価されて、2位躍進に貢献

2003年からは、野口寿浩、狩野恵輔らライバルが台頭して3年間一軍出場ゼロに終わります。そして2005年オフに、金銭トレードで新興球団の東北楽天ゴールデンイーグルスへの移籍が決まりました。そして同じタイミングで、楽天監督に野村勝也が着任します。阪神でも監督を務めていた野村は、中谷仁の捕手としての能力を高く評価していました。

移籍後3年間は、嶋基宏、藤井彰人らの存在のため、合計12試合出場に留まります。しかし、2009年、6月の代打本塁打をきっかけにマスクをかぶる機会が増えていき、後半は嶋に代わって多くの試合に起用されて、キャリアハイの55試合に出場しました。同年は、球団創設初のAクラス2位確保に大きく貢献し、クライマックスシリーズでも全6試合中4試合でスタメンに抜擢されます。打率.333と打撃でも貢献しましたが、ファイナルステージで敗れました。

現役最後は巨人で過ごし、15年目にして初の優勝を経験

2009年限りで野村勝也監督が退任すると、再び一軍出番が減り始めます。2年連続でシーズン11試合出場に終わり、2011年オフにはついに戦力外通告を受けました。球団からのスタッフ残留を固辞して、12球団トライアウトに参加します。すると、まさかの巨人に評価されて入団が決まりました。

しかし、正捕手・阿部慎之助、控え捕手も豊富なチームでは、中谷仁の出番はわずか5試合に終わります。それでも二軍における若手育成はチームに評価され、プロ15年目にしてチームの優勝を経験しました。

母校・智弁和歌山コーチとして、21年ぶりの甲子園凱旋帰還

2012年限りで現役引退すると、そのまま巨人に残りブルペン捕手に転身します。また当時の原辰徳監督の計らいで、第3回WBCにもブルペン捕手として参加しました。その後、希望していた指導者への道を歩み始めます。この時、かつての古巣阪神から球団スタッフ打診されるほど、人望がありましたが固辞しました。2014年に学生野球資格を回復させると、2017年から、母校智弁和歌山高野球部にてコーチ生活をスタートさせます。自身の恩師でもある高嶋仁監督の補佐を務め、同年夏の県大会優勝という結果を導き、自身21年ぶりに甲子園出場を果たしました。


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