名前赤田将吾(アカダショウゴ)
生年月日1980年9月1日
日本
出身鹿児島県曽於郡大橋町
プロフィール小学生時代からソフトボールを始める。日南学園高1年から4番を務め、1998年夏の甲子園で4番、2塁手として3回戦に進出。アジアAAA選手権で全日本の3番を務めた。高校通算49本塁打をマークした。

1999年ドラフト2位で西武に入団。ルーキーイヤーから一軍試合を経験。しかし肩痛から外野手転向、さらにスイッチヒッター挑戦もあって5年間ファーム中心に送る。プロ6年目の2004年、若手切り替えのチーム方針により外野手レギュラーを獲得。3年連続で規定打席に到達させる。

2007年、選手会長に就任するも、シーズン前に怪我を負う。レギュラーを失うと不調が重なり、2010年2月にオリックスへトレード移籍。初年度に開幕スタメンの座を獲得するも、準レギュラー扱いが続く。2013年1月、2対3の大型トレードで日本ハムへ移籍。初年度は57試合出場して、打率.273と意地を見せるも、2014年、8試合出場に終わり戦力外通告。同年10月に、古巣西武の二軍育成コーチに就任。

通算成績は913試合、2,525打数643安打、30本塁打、211打点、75盗塁、打率.255。日南学園高〔平成11年〕卒、179センチ、79キロ。右投両打

日南学園時代、俊足・強打の打者として甲子園でも活躍

赤田将吾は、鹿児島県曽於郡大崎町で生まれると、小学生時代から地域で盛んだったソフトボールを始めます。その後地元の中学校を卒業すると、宮崎県の日南学園高校に進学しました。すると攻守に抜群の野球センスを披露して、1年生から4番に座ります。夏はまさかの初戦敗退となりましたが、秋季大会で準優勝して九州大会に進むと、本塁打を放つなど見事な優勝を飾りました。当然のようにセンバツ出場を決めると、本戦初戦に勝利して2回戦に進みます。しかし、好投手・川口知哉に抑えられて姿を消しました。

2年夏も初戦敗退を喫し、3年夏の最後のチャンスにすべてを賭けます。3回戦からは接戦の連続でしたが、強打で退けて3季ぶりの出場権を掴みました。松阪大輔率いる横浜高校の春夏連覇が注目された大会において、赤田も強打の二塁手として名を馳せます。愛工大名電戦は9回に大逆転で勝利、平塚学園戦は11-9の壮絶な打撃戦を制しました。3回戦の明徳義塾戦で敗れましたが、赤田は4番打者として3試合で8安打を記録します。高校通算49本塁打さらに、AAAアジア野球選手権大会でも日本代表選抜されるなど、プロスカウトの注目を集めました。

西武入団後は、主にファームで外野手&両打ち転向に挑戦

1998年ドラフト会議では、超高校級投手・松阪大輔の獲得に成功した西武ライオンズが、2位で赤田将吾を指名します。大型内野手として大いに期待されましたが、ルーキーのためファームスタートとなりました。しかし、シーズン終盤の8月、スタメンでプロ初出場すると同試合で嬉しい初安打も記録します。同年の出場は13試合に終わりましたが、打率.286に5盗塁と将来を感じさせる活躍を見せました。

しかし、翌年も31試合の出場と一軍定着できません。さらに慢性的な肩痛もあって内野手から外野手への転向を余儀なくされました。慣れない外野守備のため、ファームでの試合出場がメインとなります。2002年、チームは4年ぶりにリーグ優勝を果たしましたが、一軍試合出場は37試合に終わりました。同年オフに、伸び悩みを克服するためにもスイッチヒッター挑戦をスタートさせます。チーム内の先輩・松井稼頭央の技術を真似ながら、尋常ではない練習に明け暮れました。

チームの世代交代の波に乗って外野手レギュラーを獲得

しかし、2004年に赤田将吾に転機が訪れます。前年オフに松井稼頭央がメジャー移籍、そしてシーズン開幕前には主砲・カブレラが骨折とチームはいやがうえにも世代交代を迫られました。新監督に着任した伊東勤は、中島裕之、細川亨らとともに、赤田を不調の小関竜也に代わる中堅手として積極的に起用します。すると佐藤友亮との1、2番コンビは西武の大きな武器となりました。左打席では高い出塁率を誇り、右打席では9本塁打が示すようなパンチ力を披露します。同年は初めて規定打席に到達し、打率.259、9本塁打、41打点、16盗塁で、チーム12年ぶりの日本一に大きく貢献しました。

翌年以降もレギュラーを務めると、打率も.272、.293と徐々に向上させます。3年連続二桁盗塁、2006年にはリーグ最多の7本の三塁打と足でも魅せて、3年連続で120試合以上に出場しました。

不調に怪我が重なり、レギュラーを失うと度重なる移籍

チーム内の人望に熱い赤田将吾は、2007年から松阪大輔に代わって選手会長に就任します。ところが、シーズン開幕前に右太ももを痛めると、予想以上に長引いてわずか20試合の出場に留まります。2008年にも左足首関節捻挫で長期離脱しましたが、終盤に復帰して、クライマックスシリーズ突破の原動力となりました。

レギュラー再奪取といきたい2009年は、不調が長引き57試合出場に終わります。すると、翌年2月、阿部真宏との交換トレードでオリックス・バファローズへ移籍が決まりました。小瀬浩之の急死で、オリックスの外野手緊急補強に応える形でしたが、いきなり開幕メンバーに抜擢されます。新天地でチャンスを得ましたが、打撃不振でレギュラーを掴み損ねました。2011年、77試合出場で打率.305と意地を見せますが、2012年は再び不調に陥り、26試合の出場に留まります。2年契約の最終年を迎えると、2013年1月に、2対3の大型トレードで、自身3チーム目となる日本ハムへの移籍が決まりました。

日本ハム移籍も、鉄壁の外野手レギュラーの前に現役引退

ともに移籍した木佐貫洋が先発ローテーション投手として9勝、大引啓次が遊撃手レギュラーを奪ったのに対し、赤田将吾は準レギュラー扱いとなります。それでも57試合に出場して、打率.273とまずまずの成績を残しました。しかし、2014年は、中田翔、陽岱鋼、西川遥輝の3人が外野手レギュラーとして完全固定されます。中田は打点王にベストナイン、西川は盗塁王とタイトルを奪い、陽もキャリアハイの打率.293にゴールデングラブ賞という完璧な布陣だったため、赤田の出場はわずか8試合に終わりました。

同年オフに戦力外通告を受け、16年間の現役生活にピリオドを打ちます。その後は、古巣西武ライオンズに復帰して、新設された二軍育成コーチへ就任しました。

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