名前 | 小林宏(コバヤシヒロシ) |
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生年月日 | 1970年11月30日 |
国 | 日本 |
出身 | 広島県廿日市市 |
プロフィール | 小学4年から廿日市ジュニアで野球を始める。
崇徳高校時代は軟式野球部に所属して内野手としてプレー。広島経済大学へ進学して硬式野球部に入る。3年秋から投手を始めると、4年春季に緊急登板してチームを優勝に導く。神宮の全日本選手権でも好投を見せてスカウトに注目される。 1992年11月ドラフト1位でオリックスに入団。ツーキーイヤーから一軍登板を経験すると、2年目からは先発に中継ぎにフル回転します。1995年は8勝をマークして優勝に貢献して、同年の日本シリーズではチーム唯一の勝利を挙げる。 1996年も8勝でチームの日本一に貢献。1997年は急造クローザーとして15セーブ。1998年から先発に固定されて自身初の二桁10勝。1999年から2年連続開幕投手も不調と故障に苦しむ。2001年は一軍出場無し、2002年からも不調を脱せず終わり、2004年オフに分配ドラフトで楽天へ移籍。新天地でもわずか3試合に終わり、2005年オフに戦力外通告。 2009年からオリックス二軍投手コーチに就任。その後、一軍投手コーチ、育成投手コーチなどを歴任。2015年、社会人チーム・シティライト岡山の選手兼任コーチとして活動。2016年からオリックスコーチに復帰。 通算成績は245試合、53勝47敗19S、防御率4.42、753回2/3、448奪三振。崇徳高校卒、広島経済大学卒、182センチ、82キロ。右投右打 |
チームの緊急事態に、突如マウンドを任されて優勝に貢献
小林宏は、広島県廿日市市に生まれ、小学4年生から「廿日市ジュニア」で野球を始めます。当時は捕手を務め、その後内野手に転向しましたが、特に目立つ存在ではありませんでした。崇徳高校に進学すると、甲子園を目指すわけでもなく軟式野球部へ入部します。3年経過しましたが、当然プロスカウトの注目は皆無でした。
地元の広島経済大学では、硬式野球部へ入部します。そして、加盟していた広島六大学野球連盟では、近畿大学工学部がリーグ11連覇を達成するという黄金時代真っ只中にありました。しかし、3年秋季にチームとして実に34季ぶりの優勝を手にします。さらに4年春季にも優勝争いを繰り広げましたが、投手が次々と故障していなくなるという事態に陥りました。すると、3年秋から投球練習していた小林に白羽の矢が立ちます。この緊急登板機会に好投を披露すると、見事チームを連覇に導きました。さらに、続く全日本大学野球選手権大会でも、同大会初勝利をあげるなどベスト8入りします。こうした活躍が評価されて、国際大会を戦うアマチュア野球日本代表にも選出されました。
本人も驚く、まさかのドラフト1位指名でオリックス入団
4年秋季もリーグ優勝を決めるなど、有終の3連覇で大学生活を終えます。突如、現れたドラフト指名候補の登場に対して、地元広島東洋カープの上位指名が予想されました。周囲の盛り上がりとは裏腹に、小林宏は舞い上がることなく運命の日を待ちます。1992年ドラフト会議では、松井秀喜に4球団、伊藤智仁に3球団の1位指名が集中しました。松井は巨人に、伊藤はヤクルトに交渉権が獲得すると、伊藤の抽選権をはずしたオリックス・ブルーウェーブが、外れ1位で小林を指名します。自身の予想をはるかに上回る高評価に驚き、信じられないままにプロ野球選手となりました。
そして期待の即戦力としてルーキーイヤーの7月にプロ初登板します。終盤には先発も経験するなど、9試合に登板して1勝1敗、防御率3.97の数字を残しました。2年目の1994年は、先発およびリリーフとして21試合に登板して、3勝3敗、防御率3.69とまずまずの成績を残します。同年は、鈴木一郎がイチローとしてデビューし、シーズン200安打を達成するなどパ・リーグ2位と躍進しました。
日本シリーズオマリーとの14球勝負で、一躍全国区になる
1995年は、開幕前に本拠地神戸を未曾有の大震災が襲い、被災者たちを勇気付けるためにも負けられない年となります。チームは一丸となり、6月に首位を捉えると夏場から独走して優勝を成し遂げました。小林宏も、途中から先発投手に定着して8勝をマークします。そして、続く日本シリーズで、自身の名を自らの力投で全国区に押し上げました。
野村克也監督率いるヤクルトスワローズが、初戦から磐石なプレーで3連勝して一気に王手をかけます。後がないオリックスは、第4戦が延長戦に突入すると10回から、第5戦先発予定の小林を投入しました。ところが延長11回裏に、1死一二塁で4番オマリーという大ピンチを迎えます。早々に追い込みましたが、ファウルで粘られて息詰まる投球は14球にも及びました。しかし、怒涛のストレートで三振に切って取ると、続く古田敦也も抑えます。12回表にオリックスが勝ち越すと、その裏を三者凡退に抑えて一矢報いました。
チーム事情に応じて、先発、中継ぎ、抑えをそつなくこなす
一躍名を馳せた小林宏は、その後もチーム事情に合わせて、あらゆる役割で貢献します。1996年は、先発にリリーフに37試合に登板して8勝し、オリックスとして初の連覇、ならびに初の日本一に貢献しました。1997年は、前年のクローザー鈴木平が故障したため、
その穴埋めに回り、53試合登板、7勝3敗15セーブをマークします。1998年、野田浩司が絶不調に陥ると、再び先発に転向して、自身初チームトップの二桁10勝をマークしました。
どの役割もそつなくこなした小林は、1999年の開幕投手に指名されて、2年連続で先発投手を務めます。開幕で勝利投手となりましたが、過去3年の酷使がたたり、故障や不調でわずか6勝とチームに貢献できませんでした。2000年も栄誉ある開幕投手に抜擢されましたが、5勝9敗と大きく負け越して、防御率も6.75という相当不本意な成績でした。
長年不調が続き、楽天へ移籍するも活躍することなく引退
2001年は、故障のため自身初の一軍登板無しに終わります。2002年、中継ぎとして復帰しましたが、かつての大活躍が嘘のように不調から抜け出せませんでした。同年からの3年間、20試合弱に登板しましたが、防御率を年々悪化させて、2004年は11.25という考えられない成績で終わりました。
同年はプロ野球再編問題が勃発し、オリックスは近鉄バファローズとの統合、さらに新規参入球団として楽天が誕生します。そしてオフには分配ドラフトが行われて、小林は楽天への入団が決まりました。楽天創設1年目は、薄い選手層のため登板数が増えると思われましたが、まさかの3試合登板に終わります。その3試合でも結果を残せず、ついに戦力外通告を受けました。
2009年、古巣オリックスのコーチとして指導者生活をスタートさせます。6年間の間に、一軍、二軍、育成コーチなどを歴任しました。その後、2015年は、社会人チーム・シティライト岡山のコーチを務め、選手復帰の可能性を探ります。しかし、復帰登板機会は訪れず、再びオリックスのコーチとして復帰しています。