名前武内晋一(タケウチシンイチ)
生年月日1983年12月10日
日本
出身兵庫県神戸市
プロフィール小学3年で野球を始め、中学時代は神戸須磨クラブで投手兼外野手4番打者。

1999年、智弁和歌山高に進み、打者に専念すると1年からレギュラーとなり、同年夏の甲子園に出場してベスト4。強力打線が形成された2000年センバツは準優勝、夏の甲子園では、チームとして100安打、11本塁打など大会記録を数多く樹立して優勝。早稲田大学でも、1年生から強力打線の中核を担い、大学史上初の4連覇を達成。大学4年間無失策に巧打の選手として注目される。

2005年、希望入団枠でヤクルトに入団。開幕第2戦に先発で初出場すると、いきなり3ランを放って満点デビューを飾る。3年目から3年連続100試合出場するも、準レギュラーの域に留まる。

外野手もしくは一塁手としてしか出場できないため、常に外国人との争いとなる。2012年から2シーズン選手会長を務める。

2016年までの通算成績は705試合、1,047打数233安打、21本塁打、102打点、4盗塁、打率.223。智弁和歌山高、173センチ、86キロ、左投左打

甲子園史上最強打線の3番打者として春準優勝、夏優勝を実現

武内晋一は、兵庫県神戸市で生まれ、小学生の頃から軟式野球を始めます。「平野少年団」ではエースに4番を務めるなど早くも抜群の野球センスを発揮しました。中学に上がると、「神戸須磨クラブ」に所属して、チームの中心的存在として活躍します。そして高校進学にあたって、兵庫を離れ、名門・智弁和歌山を選択しました。入学と同時に野手に転向すると、1年生からレギュラーとして夏の甲子園に出場します。3年生のエース井上和久を中心にした守りのチームは、2年前に続く優勝を目指しましたが、準決勝でサヨナラ負けしました。

自身1年秋の新チームは、一転して強打のチームとなります。秋季大会優勝校として挑んだ近畿大会では、初戦敗退となりましたが、潜在能力が評価されてセンバツ出場が決まりました。するとセンバツ初戦から、20得点で打ち勝つなど強力打線が機能して見事な準優勝を飾ります。高校野球史上最強打線と謳われ、2年夏予選でも5試合で43得点して、5年連続出場を決めました。

そして歴史を作った82回甲子園大会がスタートします。打線の中核を担う不動の3番として出場し続け、強力打線で強豪を次々と下していきました。全6試合で34失点しましたが、甲子園史上初めて大会通算100安打、11本塁打など7つの大会新記録を樹立して優勝を飾ります。竹内の2年生時の打率も5割を超えたほどでした。夏の甲子園連覇を狙った2001年は、県大会でまさかの初戦敗退を喫します。しかし、高校通算47本塁打の進路は大いに注目されました。

早稲田大学の豪華打線の中核としてリーグ4連覇に貢献

高卒でプロ入りせずに、早稲田大学へ進学すると、1年春からレギュラーを奪います。2年春には打率.405(リーグ3位)、17打点の活躍で打点王とベストナインに輝きました。当時は、1番・田中浩康、2番・青木宣親、3番・鳥谷敬、4番・比嘉寿光、5番・武内晋一、6番・由田慎太郎という後に6人全員がプロ入りする豪華なラインアップを形成します。この強力打線で、早稲田大学史上初のリーグ戦4連覇を達成しました。

自身が主将を務めた4年春にも優勝を飾ると、日米野球でも4番に抜擢されます。チームの中心として噂どおりの活躍を見せて、日本を優勝に導きMVPを受賞しました。しかし、この時海外選手との力の違いを体感したことで、アベレージヒッターへの転身を試みます。すると4年秋には0本塁打ながら、打率.426で首位打者と打点王に輝き、ベストナインも受賞しました。

ヤクルト期待のホープとして入団し、鮮烈なデビューを飾る

2005年ドラフト会議では、希望入団枠で東京ヤクルトスワローズへの入団が決まります。前々年の青木宣親(2003年4巡目指名)、前年の田中浩康(2004年希望入団枠)に続いて、早稲田大学出身の期待のホープとして加わり、大杉勝男、広沢克己らスラッガー達が背負った背番号8を引き継ぎました。

武内晋一は、大学時代に一塁手を任されて4年間無失策という高い守備力を持っていました。しかし、一塁手は外国人を始めとする長距離打者が多く、自身は左利きでもあるため外野手への転向を余儀なくされます。それでも、2006年の開幕第2戦に先発起用されると、値千金の同点3ランを放ち、チームの連勝スタートに貢献しました。

外国人含めて強力ライバルの前に、準レギュラー時代が続く

デビュー戦は派手でしたが、武内晋一にとってレギュラー獲得は至難の業となります。外野手は、青木宣親とアレックス・ラミレスの二人が絶対的なレギュラーを務め、残った一つの枠にも宮出隆自や真中満ら多くのライバルがひしめき合いました。一塁手にもアダム・リグス、アーロン・ガイエルらがいたため、1年目の2006年から12試合、24試合と少ない出場に終わります。2008年は、ラミレスが巨人へ移籍、ガイエルも故障したこともあって、初めて出場試合数が100試合を超えました。しかし、福地寿樹が加入して即盗塁王を獲るなど大活躍を見せます。レギュラーは獲得できず、左の代打や守備固めなどの出場に留まりました。

その後、青木もメジャー移籍したものの、ジョシュ・ホワイトセル、ウラディミール・バレンティン、ラスティングス・ミレッジなどチームにとって不可欠な外国人補強は続き、竹内の出番はむしろ減っていきます。毎年、一軍に定着するものの、年間の打席が200打席を越えたシーズンは一度もありませんでした。

選手会長に抜擢されるキャプテンシーも、出場機会を減らす

武内晋一は、レギュラーを獲得していませんでしたが、2012年から2年間選手会長に抜擢されます。しかし自身の出場は相変わらず代打メインに終わり、チームも2013年には最下位に転落しました。すると同年から、徐々に出場試合数も打席数も減らしていきます。2016年の出場はルーキーイヤーに続いて少ない25試合の24打席に終わり、戦力外通告を受ける可能性もありました。

それでも、2017年、ヤクルトの戦力として12年目のシーズンを迎えています。かつては期待のホープと呼ばれていましたが、ベテランの年齢に差し掛かりました。同年のヤクルトは、考えられないほど主力に怪我人が続出し、おのずと出場が増えていきます。6月にはサヨナラ打を放つなど存在感を見せました。千載一遇のチャンスのシーズンですが、いまだ準レギュラーの域から抜け出せず、もどかしいシーズンを送っています。


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