名前米野智人(ヨネノトモヒト)
生年月日1982年1月21日
日本
出身北海道札幌市
プロフィール小学3年の時、手稲ファイターズで野球を始める。北照高に進み、1998年春のセンバツに出場するが、初戦で敗退。1999年夏は南北海道大会ベスト4。超高校級の強肩の持主として注目される。遠投110メートルを誇り、高校通算27本塁打の記録を持つ。

2000年ドラフト3位でヤクルトに入団。ポスト古田敦也として期待されるも、第2捕手もつかめず5年が過ぎる。2006年古田選手兼任監督の誕生で、出場を増やしキャリアハイの116試合に出場。一気に正捕手となるも翌年以降打撃不振に陥り、正捕手をライバルたちに奪われる。

2009年、FAで相川亮二が加入すると一気に出番を失い、2010年6月に西武ライオンズへトレード移籍。同チームでも正捕手争いに敗れて、外野手登録。しかし2013年から出場機会が激減し、2015年オフに戦力外通告。

2016年、日本ハムの選手兼バッテリーコーチとして入団も、同年で退団。引退後は、フードコーディネーターに転身して、飲食店をオープンさせる。

通算成績は300試合、661打数136安打、13本塁打、64打点、3盗塁、打率.206。北照高卒、181センチ、76キロ。右投右打

甲子園出場は1度に終わるも、強肩がスカウトに注目される

米野智人は、北海道札幌市に生まれ、小学校低学年時代はサッカーを楽しみます。しかし、兄が中学校のシニアリーグに入ったことで、自身も小3で手稲東ファイターズに入り野球を始めました。すぐさま野球の魅力に取り付かれ、中学時代も新琴似リトルシニアでプレーします。その後札幌を離れ、前年に夏の南北海道大会の決勝まで進出した小樽市の北照高校に進学しました。

1年夏は南北海道大会ベスト4で、甲子園出場を逃します。しかし、1年秋の新チームでは自身はレギュラー捕手として扇の要を担い、北海道大会優勝を成し遂げました。文句なしで、北照として初のセンバツ出場を決めます。高打率のチームで甲子園に乗り込みましたが、郡山高校との初戦はわずか5安打に抑えられて、2-3で惜敗しました。2、3年の夏も、ともに準決勝敗退して全国舞台でのアピールはほとんどなく終わります。ところが、ヤクルトスカウトが北照高校の対戦相手の偵察に訪れた際、米野の強肩に興味を示していました。

ポスト古田敦也として期待されて、ヤクルト3位指名で入団

その後も注目したヤクルトスワローズは、1999年のドラフト会議で米野智人を3位指名します。高校通算27本塁打に遠投110メートルの強肩を評価して、ポスト古田敦也の期待をかけました。1990年に大学、社会人を経てヤクルトに入団した古田は、同年監督に着任した野村克也の全幅の信頼を勝ち取り、1年目から絶対的な正捕手を務めます。3年目にリーグ優勝、4年目に日本一など低迷時代を抜け出し、1990年代に3度日本一を達成させたチームの大黒柱でした。

1996年ドラフトで入団していた小野公誠と、第2捕手を争う戦いがスタートします。高卒ルーキーのため、初年度はファームで過ごし、2年目の2001年、わずか1試合ながら一軍試合に出場しました。一方、ライバル小野は同年に35試合と出場機会を増やします。米野も2002年にはプロ初本塁打、初サヨナラヒットを記録するなど22試合に出場しました。しかし、小野と比べて打撃力に乏しく、後塵を拝する時期が続きます。結局プロ入団5年間で72試合出場と、第2捕手の座も掴めずにいました。

古田敦也監督初年度、プロ6年目にして正捕手を勝ち取る

2006年から、40歳古田敦也は選手兼任監督に就任したため、米野智人に大きなチャンスが訪れます。実績から言えば、前年にキャリアハイの62試合に出場した小野公誠が正捕手に座ると思われました。しかし、小野は故障で出遅れたため、米野がメインでマスクをかぶります。同年は、米野が116試合、2001年ドラフト5位入団の福川将和が47試合、古田が36試合で自身がチームの捕手最多出場となりました。打撃が課題でしたが、前年で監督を退いた若松勉の指導が実り、打率.235、7本塁打、37打点とオールキャリアハイの成績を残します。チームは勝率.490の3位と、優勝にははるか及びませんでしたが、飛躍の年となりました。

多くのライバルに後れを取り、わずか1年で正捕手を明け渡す

2007年も、前年の実績から正捕手候補としてシーズンをスタートさせます。しかし、開幕前に極度の打撃不振に陥り、福川将和に多くの出番を奪われました。5月からスタメン出場機会を多く与えられますが不調から抜け出すことができず、福川や2004年ドラフト4位入団の川本良平の起用が増えていきます。同年の出場は、福川86試合、川本51試合に対して32試合に終わり、わずか1年で正捕手の座を奪われてしまいました。翌2008年も16試合とさらに出場機会を減らすと、同年オフにFAで実績ある相川亮二が加入します。すると開幕戦からマスクをかぶるなど、正捕手となり、自身の出場はわずか11試合に留まりました。

一時は外野手登録され、2チームを渡り歩くも現役引退を決意

2010年、開幕からファーム暮らしが続くと、6月に西武ライオンズへのトレード移籍が決まります。しかし、正捕手・細川亨の存在が大きく一軍出場無しに終わりました。2011年、細川がFA移籍したため、チャンスでしたが怪我で出遅れて3試合出場に留まります。チームの正捕手には炭谷銀仁朗が座り、同年オフには外野手としての練習をスタートしました。

2012年、正式に外野手登録されてシーズンを迎えると、4月に逆転本塁打するなど32試合に出場します。しかし、確実性の低い打撃ではレギュラー獲得はおろか一軍定着もできませんでした。2013年からの3年間で合計17試合出場に終わり、2015年オフに戦力外通告を受けます。すると1ヵ月後に、故郷北海道を本拠地とする日本ハムから、選手兼バッテリーコーチのオファーが舞い込みました。4年ぶりに外野手から捕手登録に代わるも、ユーティリティプレーヤーとして出場、さらにはコーチの肩書きで指導と忙しいシーズンを送ります。しかし、選手としての限界を感じて、2016年限りで現役引退を決意しチームを退団しました。

フードコーディネーターとしてセカンドキャリアを歩み始める

プロ野球選手の引退後として、独立リーグ挑戦や指導者転身が多い中、米野智人は全く別のセカンドキャリアを選択します。フードコーディネーターに転身し、食の伝道師としての活動を模索しています。そして東京・下北沢に健康志向のレストランバー「inning+(イニング・プラス)」をオープンさせました。

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