名前西田真二(ニシダシンジ)
生年月日1960年8月3日
日本
出身和歌山県和歌山市
プロフィール小学3年から貴志少年野球団で野球を始める。PL学園高では木戸克彦(阪神)とバッテリーを組み、1978年春ベスト8、同年夏の甲子園にエースとして出場し優勝。法政大に進み外野手に転向。

1983年ドラフト1位で広島に入団。外野手として入団も、レギュラーが鉄壁で代打中心の起用となる。同年は4連続代打本塁打の日本タイ記録を達成。以後も、代打中心に過ごしながら、1989年から2年連続で打率3割オーバーを達成。

1991年、後半は4番に定着して、リーグ優勝に貢献。同年はキャリアハイの102試合に出場。しかし、翌年から徐々に出場試合数を減らし、1995年引退。

その後野球解説者に転身。1999年広島打撃コーチに就任。2001年10月退団。2005年、四国アイランドリーグ・愛媛マンダリンパイレーツ監督就任。同年最下位に終わり対談すると、社会人チーム・広島レッドフェニックス監督就任。

2007年から、再び四国アイランドリーグ・香川オリーブガイナーズ監督就任。初年度で独立リーグチャンピオンを達成。その後も定期的に優勝を重ね、2017年は監督11シーズン目に突入。

通算成績は787試合、1,412打数402安打、44本塁打、226打点、21盗塁、打率.285。法政大学卒、左投左打、174cm、82kg

PL学園のエースとして全試合完投に、奇跡の逆転で全国制覇

西田真二は、和歌山県に生まれ、小学3年生から貴志少年野球団で野球を始めます。5年生からは、父がチームの監督に就任しました。実子でも分け隔てなく厳しい指導を受けて、野球の腕をあげると、河西中学校時代には県大会優勝を実現します。中学卒業を前にして、強豪校から多くの勧誘を受けると、早々に進路を確定させて大阪のPL学園中学へ転校しました。

1976年、PL学園高校に入学すると、先輩たちが夏の甲子園出場を決めます。自身と同級生の木戸克彦はさすがにメンバー入りできず、応援席で準優勝を見届けました。2年時は春夏ともに甲子園出場を逃し、同年秋からの新チームでは中心となります。投げてはエースとして木戸とバッテリーを組み、打っては打線の中軸を務めました。そして、秋季大会で好成績を収めると浪商高校とともに、翌春のセンバツに出場します。自身初の聖地でも臆することなくプレーして、3完投に1本塁打でチームをベスト8に導きました。

同年夏の大阪府大会では、全8試合をトータル10失点に抑えて、春夏連続出場を決めます。そして本戦でも、2回戦から3試合連続完投(うち1完封)に本塁打も放って準決勝進出しました。準決勝は終始劣勢でしたが、逆転のPLとして恐れられた驚異的な粘りを発揮します。0-4で迎えた9回裏に一挙4点を取って同点に追いつくと、延長12回裏にサヨナラ勝利しました。12回完投した西田は、決勝戦でも先発マウンドに上がります。打線は高知商業のエース森浩二を前に、8回まで無得点に抑えられ、0-2で9回裏の攻撃を迎えました。あと一人でゲームセットという絶体絶命の場面で、西田に打席が回り起死回生の同点タイムリーを放ちます。勢いに乗ったチームは、その後3点目を奪ってサヨナラ勝利し、PL学園として初の全国制覇を成し遂げました。

広島ドラフト1位で入団し、4連続代打本塁打の偉業達成

木戸克彦とともに法政大学に進学すると、投手から外野手へ転向します。前年センバツで対戦した投手・田中富生もチームメイトとなり、在学中はベストナイン5度獲得する活躍で3度の優勝を経験しました。

1982年秋、ドラフト会議では、木戸が阪神タイガースから単独1位指名、田中が3球団から1位指名されます。広島東洋カープは、田中の抽選を外すと、外れ1位で西田真二を指名して、法政大学から実に3名もの1位指名選手が誕生しました。即戦力期待の西田でしたが、当時の広島外野陣は、ベテラン山本浩二に加え、若手の山崎隆造、長嶋清幸とレギュラーが固定されます。代打中心での出場となりましたが、4連続代打本塁打というセ・リーグタイ記録を達成しました。

長らく代打の切り札を務め、優勝時はつなぎの4番を全う

ほぼ同年代の山崎隆造、長嶋清幸が代わらず外野手レギュラーを務め、山本浩二引退後は、ランスやロッド・アレンなど外国人が君臨します。もともと守備力に難があった西田真二は、レギュラー獲得のチャンスはなく代打稼業を続けざるを得ませんでした。それでも、広島史上でもトップクラスの配球を読む能力や勝負勘を持ち合わせ、切り札的存在となります。1986年に、出場試合数、打率を落としましたが、1989年から驚きの集中力を発揮するようになりました。同年、初めてシーズン打席数が200を越えると、規定打席不足ながら、打率.355、9本塁打をマークします。翌1990年にも、打率.349、13本塁打と高い数字を残して、時には4番を任されました。

1991年、チームは強力投手陣を武器に、久々のリーグ優勝するチャンスを迎えます。野手では若い前田智徳、江藤智らがレギュラーとして定着しましたが、チーム全体の長打力に欠けていました。すると山本浩二監督は、後半戦に西田を4番に定着させます。その抜擢に応えて、キャリアハイの102試合出場、打率.289に出塁率.406を武器につなぎの4番を全うしました。優勝を決めた試合でも、初回に西田のタイムリーであげた1点を守り抜きます。続く日本シリーズでも全試合に出場しましたが、西武ライオンズの前に3勝4敗で敗れました。

独立リーグ監督として手腕を発揮し、長期政権を任される

1992年以降は、年々出場機会を減らし、1995年限りで現役引退します。その後は、解説者生活を挟んで、1999年、古巣広島のコーチとして指導者生活を始めました。同年着任した達川光男監督の元で、一軍打撃コーチに就任して、特にルーキーだった新井貴浩を徹底的に指導します。2001年に、山本浩二新監督に代わっても同年までコーチとして広島に貢献しました。

再びの解説者生活を経て、2005年からは自身初となる監督業を任されます。四国アイランドリーグ・愛媛マンダリンパイレーツの監督として指揮を振るいましたが、成績が伴わず1年で解雇されました。翌年に社会人チーム・広島レッドフェニックス監督を1シーズン務めると、再び四国アイランドリーグへ復帰します。香川オリーブガイナーズ監督に就任すると、いきなり前期後期完全優勝に始まり、年間総合優勝、さらにはグランドチャンピオンシップも勝ち抜き独立リーグトップに上り詰めました。その手腕が評価されて、独立リーグ監督としては異例の長期政権を任されます。2008年、2010年と独立リーグチャンピオンを3度達成するなど、継続して好成績を残しました。2014年からは優勝ペースが落ちたものの、2017年シーズンは監督として早くも11シーズン目に突入しています。

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