名前小林幹英(コバヤシカンエイ)
生年月日1974年1月29日
日本
出身新潟県
プロフィール新潟東リトルリーグで本格的に野球を始め、新潟明訓高校に進学。3年夏に甲子園初出場するも初戦敗退。専修大学では通算18勝を挙げるもほとんどを2部リーグで過ごす。卒業後、プリンスホテルに入社。

1998年ドラフト4位で広島に入団。140キロ台後半の剛速球と落差の大きいフォークを武器に、同年ルーキーながら中継ぎ、クローザーと大活躍。新人王は逃したが、セ・リーグ会長特別表彰を受ける。同年のオールスター、日米野球にも選出された。

2年目もクローザーを任されるも不調に陥る。2002年から中継ぎに定着して、2年連続50試合登板を達成。2003年開幕前のキャンプで、椎間板ヘルニアを発症して手術。同年中に一軍試合に復帰するも球威が衰えて、出場機会を減らす。2005年はキャリアワーストの2試合のみの登板に終わり、オフに戦力外通告。

2006年から広島投手コーチに就任。一軍、二軍コーチを歴任して、2016年は選手時代を通じて初の優勝を経験。

通算成績は238試合、19勝22敗29S、防御率3.90、337回0/3、356奪三振。専修大学卒、181センチ、87キロ、右投右打

高校、大学と指名漏れが続き、社会人時代にチャンス到来

小林幹英は、父の仕事上全国を転々とする中、幼少期を広島で過ごします。小学4年生当時、新潟市に定住すると、新潟東リトルリーグで本格的に野球を教わりました。当時からチームのエースを務め、新潟明訓高校監督から熱心に誘われたこともあって同校に進学します。本格派右腕の小林は、2年からエースを任されると、3年夏に新潟明訓として初の甲子園出場を決めました。人気漫画「ドカベン」でお馴染みのユニフォームが開幕戦に登場して大注目されます。しかし、初回から失点を繰り返し、あっという間に聖地での戦いは終わりました。

高卒で指名される可能性もありましたが実現せずに、専修大学へ進学します。しかし、1年春に1部最下位を喫して2部降格となりました。その後も2部リーグから抜け出せず、日のあたらない日々が続きます。自身4年時にはエースに就任し、1学年下の黒田博樹との両右腕で秋2部リーグ優勝、そして1部昇格を勝ち取りました。プロスカウトも駆けつけましたが、皮肉にも注目されたのは黒田であり、またしても指名漏れとなります。プリンスホテルへ入社して1年が経過した頃、黒田がドラフト1位指名されて俄然プロ行きへの意欲が高まりました。つながりの強い西武ライオンズからは評価されませんでしたが、高校時代から小林を見てきた広島スカウトは、大学、社会人を通じて成長を感じます。チームが、右の中継ぎ投手を欲していたこともあって、指名リストに加わりました。

ドラフト4位入団後、新人王に匹敵する活躍でチームを牽引

1997年ドラフト会議において、広島東洋カープは小林幹英を4位で指名します。ようやくたどりついたプロの舞台で、結婚発表するという驚きの行動でも話題となりました。そして1998年の開幕戦、先発大野豊の2番手としてプロ初登板機会を得ると、2回を無失点に抑えてプロ初勝利をマークします。独特のアーム式のフォームで、いきなりフル回転すると、4月に4勝1敗4セーブ、防御率1.16という圧巻の数字で月間MVPを受賞しました。

広島は9連勝を記録するなど開幕ダッシュに成功し、小林は不調の佐々岡真司に代わってクローザーに抜擢されます。その後チームは失速して、6月以降Bクラスに沈む中、リリーフを支えました。結局、チーム最多の54試合に登板して、9勝6敗18セーブ、防御率2.87、奪三振率11.58という数字を残します。勝利数もミンチーの15勝に次ぐ2位と、通常の年なら新人王間違い無しの成績でした。しかし、同年の新人は異常にレベルが高く、川上憲伸が14勝6敗、防御率2.57に4完投3完封(うち2試合が無四球)、高橋由伸が打率.300、19本塁打、75打点、さらに坪井智哉もリーグ3位の打率.327と、揃って好成績を収めます。新人王は川上が獲得し、小林、高橋、坪井の3名全員はセ・リーグ会長特別表彰を受けました。

2年目のジンクスに苦しみ、不調からクローザーを剥奪される

1999年、佐々岡真司が完全に先発に固定されて大黒柱となり、小林幹英は継続してクローザーを任されます。しかし、打ち込まれることも多く2年目のジンクスに苦しみました。防御率を大きく落とし、一時は先発としてマウンドにも立ちます。同年の成績は、35試合登板、3勝7敗10セーブ、防御率5.86に終わりました。

1999年は、オール中継ぎとして25試合に登板するも、0勝3敗、防御率4.68と不本意な成績が続きます。同年のチームは、絶対的なクローザーが不在に終わり、二桁数セーブを挙げた選手が一人も現れませんでした。

2年連続50試合登板して復活するも、故障で出場機会を減らす

不調に故障が重なり、不本意な成績が続きましたが、2001年から中継ぎとして輝きを取り戻します。チーム3位の51試合に登板して、防御率3.43と安定した成績で貢献しました。翌年も、52試合に登板して、防御率3.18と好調を維持します。初めて2年連続で好成績をマークし、中継ぎの柱となります。翌年も同じくフル回転するつもりでしたが、キャンプ中に椎間板ヘルニアを発症して、手術を余儀なくされました。2003年シーズン終盤に一軍復帰を果たしましたが、5試合出場に終わります。その後も故障を繰り返し、2004年の登板も14試合に留まりました。

実働8年で現役引退し、その後指導者として初の優勝を経験

2005年、ファームで最優秀救援投手タイトルを獲るなど、復活の兆しを見せます。当時、一軍投手陣は中継ぎ不足でしたが、球威の衰えは隠せず一軍登板はわずか2試合に終わりました。同年オフには、ついに球団から戦力外通告を受けます。ルーキーイヤーがキャリアハイの成績となり、その後故障に苦しみ実働8年で引退するという、かつての新人王・山内泰幸と同じ道のりを歩むことになりました。

引退後は即指導者に転身して、広島の一軍投手コーチに就任します。山内も同じくコーチを務めており、低迷が続く広島投手陣の底上げに大きく貢献しました。お互い、好不調の時期、さらには故障も経験していたため、まさに生きた教材となります。2010年から二軍コーチ、2015年からは再び一軍コーチとして、投手力をアップさせて、2016年は選手、指導者時代含めて初のリーグ優勝を経験しました。

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