名前真田裕貴(サナダヒロキ)
生年月日1984年2月7日
日本
出身大阪府大阪市
プロフィール真田幸村の末裔として生まれ、小学2年から野球を始める。

姫路工では1年生夏からベンチに入り、2001年センバツに出場。本塁打を放つも初戦敗退。3年夏は県大会決勝で敗れる。同年8月高校日本代表に選ばれ、台湾で行われたAAAアジア野球選手権に出場して2勝。

11月ドラフト会議では巨人に1巡目で指名される。7月に一軍昇格すると、先発として6勝を挙げてリーグ優勝に貢献。2年目も先発スタートするも、不調とチーム事情でリリーフに転向。しかし、連日の酷使で肩を故障して二軍降格。以後2シーズンは、ほとんど出場機会を得られず。

2006年、25試合登板して復帰を印象付けましたが、若手の台頭もあって2008年シーズン途中に、横浜ベイスターズへトレード移籍。移籍2年目からリリーフに固定されると、2年連続60試合登板達成。チームが最下位に沈む中、ホールドを重ねる。2011年は不調続きながらも53試合に登板。

2011年オフ、自由契約を申し出て、ポスティングでメジャー挑戦を表明。入札ゼロに終わり、2012年3月に巨人復帰。同年はわずか1試合の登板に終わり戦力外通告。2013年は、台湾球界・兄弟エレファンツに移籍して、中継王(最優秀中継ぎ投手)のタイトル獲得。

2014年、ヤクルトと契約するも不調が続き1年で戦力外通告。2015年福島ホープス、2016年福井ミラクルエレファンツと独立リーグを渡り歩いて、同年現役引退。2017年からは巨人打撃投手に転身。

NPB時代の通算成績は312試合、24勝28敗3S、41ホールド、防御率4.42、437回1/3、240奪三振。
CPBL時代の通算成績は67試合、3勝2敗0S、32ホールド、防御率2.24、72回1/3、47奪三振。最優秀中継ぎ投手1回。姫路工高卒、180センチ、80キロ。右投右打

甲子園未勝利も、日本代表として準優勝に貢献する2勝マーク

真田裕貴は、真田幸村の末裔として大阪府で生まれ、兵庫県高砂市で育ちます。小学2年生から野球を始めると、早くも頭角を現しました。姫路工業高校進学後は、1年生から主力となり、2年秋からの新チームでは4番エースとして近畿大会ベスト8に進出します。ギリギリでセンバツ出場を決めると、初戦の日大三校戦で本塁打を放つも、守備の乱れもあって逆転されて敗退しました。

3年最期の夏は、兵庫県大会準決勝で2安打完封して決勝戦に臨みます。3番投手として出場しましたが、東洋大姫路に5安打で効率よく4得点されて、春夏連続出場を逃しました。それでも、最速146km/hを誇る右腕は、大竹寛(当時・浦和学院)らとともに日本代表に選出されて、アジアAAA野球選手権に出場します。同大会で日本は予選含めて4勝を挙げて準優勝しましたが、うち2勝は真田が勝利投手となりました。

巨人高卒ルーキーで6勝は、堀内恒夫以来36年ぶりの快挙

2001年、ドラフト会議では、その夏に甲子園最速記録を更新した寺原隼人が注目されます。ダイエー、巨人、横浜、中日の4球団が1位指名で競合し、ダイエーが交渉権を獲得しました。抽選を外した巨人は、6年ぶりの高校生1位指名で真田裕貴を指名します。オープン戦などで4試合無失点でしたが、さすがに開幕は二軍スタートとなりました。

原辰徳監督就任1年目のシーズン、投打ともに充実した巨人は快調に首位をひた走ります。真田は、7月に一軍に昇格して初先発で初登板を飾ると、2度目の先発でプロ初勝利を手にしました。その後も豊富な先発投手陣の6番目として、6勝3敗の成績を残して優勝に貢献します。同年の巨人はあまりの強さに日本シリーズも4連勝して出番がありませんでしたが、高卒1年目で6勝は堀内恒夫以来36年ぶりの快挙でした。

連日の酷使で故障を負い、ライバルの台頭で出場機会を失う

2003年も先発としてスタートしましたが黒星が続き、さらに河原純一の二軍降格からリリーフへ配置転向されます。プロ初セーブも挙げましたが、勝敗に関係なくマウンドに立ち続けたことで、右肩を故障して二軍降格を余儀なくされました。酷使による代償は高くつき、その後の2年間は合計6試合登板に終わります。2006年に、リリーフで25試合登板しましたが、かつての輝きは失われていました。2008年には、山口鉄也、越智大祐らが大きく台頭して開幕から出番を失います。すると、シーズン途中にも関わらず、鶴岡一成との交換トレードで横浜ベイスターズ移籍が決まりました。

横浜でリリーフの柱として、2年連続で60試合登板を達成

横浜では、1ヶ月も経たないうちに2年ぶりの勝利投手を手にします。移籍初年度は、チーム事情で先発とリリーフ両方を任されましたガ、翌年以降はリリーフに固定されました。すると、2009年はチームトップの68試合に登板して5勝4敗19ホールド、防御率2.98とリリーフの柱となります。2010年は、防御率を落とし、8敗と黒星先行(3勝)しましたが、2年連続60試合登板を達成して(62試合)16ホールドをマークしました。

2011年も不調から抜け出せず、セットアッパーから敗戦処理へと役割が変わります。53試合に登板してチームに貢献しましたが、当時のベイスターズは暗黒時代で、自身が移籍した2008年から4年連続でリーグ最下位を味わいました。

メジャーリーグ挑戦表明も、入札なしに終わり巨人に復帰

プロ入りして10年の間に、巨人、横浜の2球団で24勝をマークしていた真田裕貴は、2011年オフに自由契約を申し出ます。かつてのチームメイト松井秀喜と同じ代理人アーン・テレムと契約して、ポスティングシステムによるメジャーリーグ挑戦を表明しました。しかし、入札ゼロに終わり、その後もアメリカ移籍を模索しましたが、実現には至りません。そして、2012年開幕直前となって、4年ぶりに古巣巨人への復帰が決まりました。前年までの2年連続3位から覇権奪還に向けて、巻き返しをかけるチームにおいて、5月に早くも一軍から声がかかります。しかし、古巣横浜に4連打を浴びて降板すると、同年の一軍出場はこの1試合のみに終わりました。

独立リーグ含めて国内外チームを渡り歩いて、現役引退

巨人から戦力外通告を受けると、台湾球界へチャレンジします。兄弟エレファンツでは中継ぎとして活躍して、CPBL新記録となる32ホールドで、最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得しました。するとこの活躍が評価されて、2014年はヤクルトスワローズのユニフォームを着ます。投手陣が崩壊していたチームにおいて、再建の切り札として期待されましたが、12試合の登板で防御率7.71に終わりました。結局、NPB復帰は1年で終了し、以降は独立リーグを2チーム渡り歩きます。2016年は、福井ミラクルエレファンツでコーチ兼任として入団しましたが、コーチの役割が多くなり同年で現役生活に別れを告げました。

引退後は、打撃投手として巨人へ3度目の入団を果たし、第2の人生をスタートさせます。かつては打ち取るつもりで投げていた男が、打たせるために投げる日々を送っています。


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