野口寿浩について

名前 野口寿浩
生年月日 1971年6月24日
日本
出身 千葉県習志野市
プロフィール 高校3年夏の千葉県大会で準決勝まで進出。平成元年ドラフト外でヤクルトに入団。9年トレードを希望し、一時凍結していたが、10年4月日ハムの城石憲之とのトレードが成立し、移籍。日ハムでは正捕手に。同年11月日米野球に出場。182センチ、75キロ、右投右打

強肩に注目され、ドラフト外で入団

後に球界屈指の第2捕手の座を不動のものとする野口寿浩ですが、高校時代は無名中の無名。甲子園の名門校である習志野高校のレギュラー捕手として起用こそされていましたが、甲子園には縁がなく、野口在籍時のベスト記録は高校3年時のベスト4まで。高校通算の本塁打も11本とさほど多いわけではありませんでした。

しかし、そんな野口に注目していたのはスカウトの安田猛。野口の強肩は高校生離れしていて、プロとしてのレベルに達していると判断していました。さらにスカウトの安田と習志野高校の監督である石井好博は早稲田大学の先輩/後輩と言う間柄もあり、野口の獲得はほぼ当確。他球団のスカウトも野口の強肩を聞きつけてやってきた後ではすでにヤクルトが獲得寸前のところまで来ているという状態でした。

そして迎えた89年のドラフト会議。野口はドラフト外指名でヤクルトへ入団することに。ちなみにこの年の2位指名に入っていたのが古田敦也。この時点から野口は「第2捕手」としての道を歩むことが決まっていたようなものでした。

古田の2番手捕手としての地位を不動のものに

野口寿浩が入団したヤクルトは当時、正捕手候補として秦真司が最有力候補で、2番手の座には飯田哲也、中西親志らがいました。いずれの選手も捕手としては弱肩で、特に秦は正捕手として起用されていた割にはリードでの評価が今一つ。そこで当時の監督で捕手出身である野村克也は古田敦也を正捕手にして、野口を2番手捕手として鍛え上げるプランを敢行。これにより秦は代打要員、飯田はセカンド(後にセンター)コンバートと大胆な起用法に替わりました。

2年目には首位打者に輝いた古田とは異なり、野口が頭角を現したのはプロ入り5年目の94年。それまで一軍出場が1試合しかなかった野口ですが、この年は2番手捕手として63試合に出場。最大の理由となったのは古田の骨折による欠場が長引いたこと。古田が戦線を離脱している間は野口が制捕手として務めあげました。打撃では比べるまでもないという評価でしたが、野村監督のリードを忠実に守り、そして勉強熱心な点が野村に高く評価されてこの地位を築きました。

しかし、古田が復帰すると当然のようにスタメンマスクを被ることはなくなります。故障に強い古田はこの年以降大きなケガをすることもなかったため、野口は必然的に出番を失います。3年連続して20試合にも出場できなくなったことで、97年オフ、野口は自ら出番を求めてトレードを志願しました。

本来なら2番手捕手のトレードなどさほど影響がないように思われますが、球団側がこれを慰留。野村イズムを注入された野口を放出することが自身のチームにどれだけ被害を及ぼすかをわかっていたことから、野口をとどめました。

日本ハムへのトレードで才能開花

98年シーズンが開幕し、野口寿浩は例年通りの2番手捕手としての起用となりました。しかし、この年の4月6日、野口は突如として日本ハムファイターズへのトレードが決まりました。

前年までとは打って変わってのトレード劇でしたが、実はこの年のプロ野球は脱税による出場停止者が続出。ヤクルトも例外ではなく、ショートのレギュラーである宮本慎也が出場停止処分を受けていました。そのためショートの選手を欲しているというチーム状態でしたが、これに日本ハムが素早く対応し、野口のように出番に飢えていた城石憲之をトレード相手に持ちかけ成立させました。野口のトレードに反対したとされる野村克也監督はこの年のオフに退任しているように、その影響力が薄くなっていたことも想像されます。

念願のレギュラーとしての待遇となった野口は新天地で水を得た魚の様に活躍。上田利治監督が構築したビッグバン打線の中に入っても格負けしないだけの打力を誇るだけでなく、捕手としてのリードも抜群。日本ハムが前半戦で首位を独走した最大の理由ともいわれています。この活躍が認められたことでこの年のオールスターゲームに監督推薦で初出場。自身のキャリアで初とも言える日の目を見ることになりました。

99年以降も野口の活躍は続き、00年には規定打席に到達して2割9分8厘と日本ハムの捕手として球団史上最高打率&安打数をマーク。特筆すべきは3塁打の多さで、この年の野口は松井稼頭央(西武)と並ぶリーグトップの11本もの3塁打を放ちました。この活躍が認められて、またもオールスターゲームに出場しました。

阪神の優勝に貢献も、不振が続く

順風満帆だった野口寿浩のキャリアですが、01年からは自身の打撃不振によって暗転。レギュラーも当時売り出し中の若手だった實松一成に奪われてしまい、外野手として起用されることが増えていきました。02年にはレギュラーの座を奪い返しましたが、成績としては2年連続で低調なものに。そんな時に野口に声をかけてきたのは阪神タイガースの当時の監督を務めていた星野仙一でした。

中日ドラゴンズの監督時代から野口を高く評価していた星野は矢野燿大に次ぐ2番手捕手のいないチーム状況に苦心していました。実際に02年シーズンも開幕から首位を独走した阪神でしたが、矢野の故障とともにズルズルと負けが込みだして4位に終わっています。もし、矢野と同等の2番手捕手がいればと考えるのはごく自然なことで、そこで野口に白羽の矢が立つのは当然のことでした。

日本ハムでレギュラーを務めていただけに再び2番手捕手に戻るのは抵抗があったと思われる野口ですが、このトレードを受けて阪神へ移籍します。

野口を加えた阪神は03年、開幕から好調をキープ。矢野をメインとして使いつつ、休養日に野口を起用するという采配もピタリとハマって18年ぶりのリーグ優勝と言う最高の結果を残しました。02年オフに大幅な知の入れ替えを断行した星野監督自身、「最も効果的な補強」のひとつとして、野口の獲得を挙げるほどでした。

しかし、野口はやはり2番手捕手のまま甘んじるのを拒みました。その後阪神では1度も100以上の試合出場はなく、08年オフにFA権を取得すると、行使して関東の球団である横浜ベイスターズに移籍。ここではレギュラー候補として期待されましたが、現役晩年となっていた野口は体力面がネックとなり、故障を頻発。結果的に横浜で2年間の在籍でたったの19試合に出場しか果たせず、現役を引退することになります。

その後、野口は少年野球向けの野球教室を開催したり、解説者として活動していたりしましたが、17年シーズンより古巣ヤクルトスワローズの二軍バッテリーコーチに就任。自身のノウハウを後輩たちに伝えています。

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