西村徳文について
名前 | 西村徳文 |
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生年月日 | 1960年1月9日 |
国 | 日本 |
出身 | 宮崎県串間市 |
プロフィール | ノンプロの鹿児島鉄道管理局を経て、昭和57年ドラフト5位でロッテ入団。俊足のリードオフマンとして活躍、60年初の3割(.311)とベストナイン、ダイヤモンドグラブ賞を獲得。61年から4年連続で盗塁王(歴代3位)。平成2年パリーグ首位打者。9年5月現役を引退。10年コーチに就任。通算成績は1432試合、打率.272、33本塁打、326打点、363盗塁
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俊足選手としてプロ入り
後に俊足選手として名を馳せた西村徳文は幼少期からやんちゃな少年として鳴らしていました。野球を始めたのは中学生からでしたが、子供のころから遊びまわっていたことで運動能力自体は高く、中学生当時で走り幅跳びは6mも跳べたほどの実力を誇りました。
野球を始めたのは中学生からでしたが、持ち前のセンスから西村はチームを宮崎県大会へと優勝に導き、さらに高校では宮崎の県立校である福島高校に進学すると1年生からベンチ入りするほどの実力でした。しかし、当時の西村は遊び盛りの年頃だったためか、野球部を一時退部していたことも。それでも周囲の説得もあり野球部に戻るとレギュラーとして台頭するようになり、76年には夏の甲子園大会へ出場しています。
高校卒業後、西村は安定した就職先を目指して鹿児島鉄道管理局(現:JR九州鹿児島支社)に入社。そこの野球部でも野球を続けることになりました。当時はさほど野球をつづけようとは思っていませんでしたが、入社3年目の80年にスカウトがやってきたことで奮起。プロ野球選手になることを目指すようになります。そして4年目となった81年オフのドラフト会議で西村はロッテにドラフト5位指名を受けて晴れてプロの世界に。
ちなみに西村を指名したチームはロッテのほかにヤクルト、南海と3チーム。ドラフト5位の選手にしては異例の競合となりました。
スイッチヒッター転向。4年連続の盗塁王へ
プロ入りを果たした西村徳文ですが、評価ポイントはやはりその俊足。小柄な西村の場合、俊足が武器になるのは当然でしたが、プロ入り初出場となった82年の試合でも代走起用でした。また、当時の西村は打撃に難のあった選手だったため、打撃面の向上とより俊足を生かすためにスイッチヒッターへと転向します。
ただでさえ打撃に難がある選手が慣れない左打席でのバッティングを行うというのは苦行に近いことでしたが、西村は高畠康真コーチとの二人三脚の猛特訓で克服し、2年目の83年には準レギュラーとして95試合に出場。前年一度も打席に立たなかった選手が211打席も与えられるという飛躍を遂げました。
一度掴みかけたレギュラーの座を西村は逃しませんでした。3年目となる84年には124試合に出場してセカンドのレギュラーに定着。前年に2割4分1厘だった打率は4分も向上して2割8分5厘にまで上昇。25盗塁、19犠打と俊足を生かした小技を見せるようになり、当時のロッテ打線のチャンスメーカーとして機能しました。
西村が初のタイトルを獲得したのは85年。この年は同僚の落合博満が三冠王に輝いたことでも知られていますが、西村も自身はつとなる打率3割をマーク。さらにセカンドの華麗な守備が評価されて、この年にベストナイン&ゴールデングラブを獲得。この年のセカンドには辻発彦(西武)ら名選手が名を連ねていましたが、その中で獲得したことに大きな価値がありました。
さらに福本豊(阪急)が衰えを見せ始めたことからこの頃の盗塁王争いはし烈なものに。俊足選手として知られる西村としてはぜひ取りたいタイトルのひとつとなりましたが、その盗塁王の座を西村は86年から4年連続で奪取するという快挙を成し遂げます。小柄な身体で猛ダッシュする姿はいつしか「走る将軍」というニックネームに繋がり、西村の代名詞となりました。
パリーグ初の両打ち首位打者に
押しも押されぬロッテの主力選手になった西村徳文。背番号も87年から一流選手の証である一桁番号である「3」に替わり、89年には選手会長に就任しました。しかしこの年は開幕前に右手有鈎骨を骨折してしまうというアクシデントが。この間にセカンドのレギュラーを若手に奪われた西村でしたが、俊足を生かすためにセンターへとコンバート。これ以来、西村は外野を中心に守るようになりました。
俊足がウリの西村でしたが、この頃から徐々に盗塁数は減っていきました。その理由として挙がったのが多くの故障歴。90年にはオープン戦で肉離れを起こし、さらに5月には左足首をねんざと足に数多くの故障を抱えるようになりました。加えてこの年は盗塁王を争う上でのライバルである秋山幸二(西武)が絶好調。これで開き直った西村は盗塁を意識せずに安打を量産するようになりました。その結果、西村の打率は生涯のキャリアハイとなった3割3分8厘をマーク。結果的にパリーグ首位打者に輝きました。スイッチヒッターとしての獲得はパリーグでは西村が初の快挙となり、話題にもなりました。
また、西村の華麗な守備はセンターに替わってからも変わらず、この年のベストナイン、ゴールデングラブ賞を獲得。内野と外野でゴールデングラブを獲得した選手としても史上初と言う記録を打ち立てています。
しかし、この年を区切りとして西村の成績は年々下降。もともとハイアベレージを残すタイプの打者ではありませんでしたが、92年を最後に2割5分を超えることもなくなり、加齢による影響からか盗塁数も91年以降は30盗塁を超えることはありませんでした。ロッテが川崎から千葉に移転した後は控え選手として起用されることも増え、97年には現役を引退。16年間のプロ野球生活にピリオドを打ちました。
レギュラーシーズン3位からチームを日本一へ!
現役を引退後、西村徳文はすぐにロッテのコーチに就任。守備走塁で抜群の適性を見せた西村は一軍の内野守備走塁コーチとして、選手からも信頼されていました。そのため、09年にボビー・バレンタインが監督を辞任すると後任としてすぐに監督に就任することに。
バレンタインが去った10年シーズン、西村は監督としてチームを引っ張り、3位に入るとクライマックスシリーズに出場。短期決戦で無類の強さを見せたロッテはあれよあれよという間にクライマックスシリーズを制してリーグ優勝を飾りました。ロッテは05年にもレギュラーシーズン2位から日本一に輝いた経験がありましたが、3位からの日本シリーズも初。そして日本シリーズでも中日ドラゴンズを下して日本一に。レギュラーシーズン3位からの日本一は当然ながら史上初の記録となりました。
しかし、これが西村監督としての唯一の功績になりました。翌11年は最下位に沈み、12年は5位に低迷。これがキッカケとなり、西村は監督を退任しています。
現在の西村は16年からオリックスバファローズのヘッドコーチとして就任。監督経験者が他球団のコーチをするという珍しいケースを経験しています。