平野孝について
名前 | 平野孝 |
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生年月日 | 1974年7月15日 |
国 | 日本 |
出身 | 静岡県静岡市 |
プロフィール | 飯田小、飯田中、清水商を経て、平成5年名古屋グランパスに入団。左サイドからの突破力にかけてはJリーグでも1、2を争い、空中戦にも強さを発揮。9年対韓国戦で初の日本代表入り。6月キリン杯サッカーで初ゴールを決める。10年契約更改では5400万の提示を蹴り、1000万円で契約し、話題となった。W杯フランス大会に出場するなど日本代表としても活躍。12年7月京都パープルサンガ、13年ジュビロ磐田に移籍。180センチ、73キロ
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Jリーグ初年度にルーキーながら大活躍
平野孝が生まれ育ったのは静岡県清水市。日本屈指のサッカーの街だっただけに、平野がサッカーを始めるのはごく自然なこと。小学生のころからサッカーを始めると、グングンと成長していき、いつしか全国屈指のサッカー選手にまで成長。そして高校進学時には静岡どころか全国屈指の名門校である清水商業に進学します。
清水商業でも一流の成績を収めていた平野ですが、平野が高校生のころはまだJリーグは姿も形もない時期。しかし、平野が卒業することになる93年にJリーグ開幕が決定。サッカーのプロリーグができることが分かったことで平野は卒業後にプロ入りを目指すことになります。18歳の若武者を受け入れたのは静岡県の隣県である愛知県名古屋にホームを置く名古屋グランパスエイトでした。
高校卒業当時の18歳をすぐに使うというのはどのスポーツのプロチームでもなかなかないことですが、平野は入団当時から首脳陣の期待が高く、ルーキーイヤーから出場機会を得ました。リーグ戦では19試合に出場して4得点、リーグ杯では3試合で1得点、そして天皇杯でもゴールを決めるなど、点取り屋としても大いに活躍を見せました。
名古屋の主力選手として大活躍
新人とは思えないほどの適応力を見せた平野孝。2年目以降も変わらずに活躍を続けますが、そんな平野を最も高く評価していたのは95年からクラブの指揮を執ることになったアーセン・ベンゲル監督でした。
ベンゲル監督が高く評価していたのは平野の突破力。左足から放たれる強烈なシュートはもとより、正確無比なパスは幾度となくチーム屈指のストライカーであるストイコビッチに繋がり、得点を量産していました。いつしか平野はJリーグ屈指の左サイドハーフとして名を馳せるようになり、代表戦にも招集されるようになりました。アトランタオリンピックの代表候補として96年の国際親善試合のチュニジア戦が代表デビューとなり、Aマッチ試合にも登場するようになります。
順風満帆とも思われた平野のキャリアですが、名古屋入団6年目の98年、平野は脱税事件に関与していたことが発覚。当時、プロ野球選手を中心に脱税は話題になりましたが、騒動の発端である経営コンサルタントが名古屋市にあったことから、名古屋に在籍していた平野にも魔の手が忍び寄ったことになります。幸い、プレーにも影響が出ず、さらにフランスワールドカップへの出場も可能となりましたが、平野はこの頃からクラブの契約更改に疑問を呈するようになります。
平野が疑問視したのは選手に対する評価基準。これによって年俸が変わるわけですが、平野のこの年に掲示された金額は約5400万円。しかし、図らずして脱税事件に関与し、世間を騒がせた選手がこんなにもらうのはおかしいとして平野は自ら1000万円に減俸するよう申し出ました。選手側からこんな掲示をするというのは異例中の異例なだけに話題になりました。
不可解な退団。チームを流転するように
「自分のことは自分で責任を取る」を地で行った平野孝。その行為に対してファンは好意的な目で見るようになりましたが、それは同時にクラブとの間に亀裂が入ることを意味しました。翌99年も平野は例年通りの成績を収めて、チームの主軸として定着していましたが、00年シーズン途中、平野は突然名古屋グランパスエイトから解雇されてしまいました。
その理由として挙がったのが「慢性的なプレーでチームの秩序を乱した」というよくわからないもの。平野だけではなく、望月重良、大岩剛らも同様の理由で解雇となり、クラブとしては激震が走りました。前年のセカンドステージから監督に就任したジョアン・カルロスの意向が強かったということでしたが、戦力低下を危惧したストイコビッチらの主力選手の懇願もむなしく断行したことで、名古屋は今一つ勝ち切れないシーズンを送ることになりました。
行き場をなくした平野はシーズン途中に京都パープルサンガへ移籍。ここでは7試合に出場して1得点と本来の力を発揮できず、さらに01年にはジュビロ磐田へ移籍しましたが、ここでの出場はわずか3試合。レギュラーが固まっていたところに外様の平野が入りづらいという事情はありましたが、名古屋を退団して以降不遇をかこってしまいます。
流転の末に見つけたバンクーバーで意外な活躍
平野孝が復活を果たしたのは02年、ヴィッセル神戸へ移籍したことでした。出場機会を求めた平野はこの頃から左サイドハーフにこだわることなく、あらゆるポジションでプレーするユーティリティープレーヤーに変貌を遂げました。今までとは違う献身的なプレースタイルを見せた平野はヴィッセルで28試合に出場し、新境地を見せることになります。
翌03年、平野は東京ヴェルディ1969へ移籍。主にボランチや左サイドバックと言ったディフェンダー寄りのポジションで起用されることが増えましたが、これまで単年契約で転々としていた平野にしては珍しく3シーズンもプレー。しかし、05年に退団するとその後は横浜F・マリノス、大宮アルディージャを1年スパンでの在籍にとどまりました。
選手として終わりが見えてきた08年。平野は活躍の場を海外に求めます。日本以上にサッカーが普及していないアメリカのユナイテッドリーグサッカーに所属するバンクーバー・ホワイトキャップスへ入団。メジャーリーグサッカーが1部リーグだとしたら、ホワイトキャップスは2部リーグに所属している弱小チーム。特にディフェンス面が脆弱だったことが低迷の理由となっていましたが、そのウィークポイントに平野がジャストフィット。ディフェンダーとしてチームに大きく貢献します。
結果的に平野は移籍初年度にはベストイレブンに選出され、チームを優勝に導き、2年目の09年もチームの最優秀ディフェンダーに選出されました。そして在籍3年目にしてホワイトキャップスは悲願のメジャーリーグサッカーに昇格決定。これを見届ける形で平野は退団。年齢を理由に解雇された形でしたが、その功績は計り知れず、ファンからは退団を嘆く声も大きく聞かれました。
これで燃え尽きたのか、平野はこの年を限りに現役引退を発表。18年にも及ぶサッカー選手生活にピリオドを打ちました。