名前 | 後藤孝志(ゴトウコウジ) |
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生年月日 | 1969年5月14日 |
国 | 日本 |
出身 | 愛知県一宮市 |
プロフィール | 小学4年で野球を始める。1987年夏の愛知県大会では6割をマーク。そのまま甲子園出場して全国ベスト8進出。
1988年巨人にドラフト2位で入団。1990年はイースタンリーグの打点王となり優勝に貢献。1991年一軍入りするがヒザの故障などで定着しない。1992年孝志と改名。外野手での登録だが、内野を守ることもあり、代打、代走での出場気か増やす。 1998年からは2年連続で100試合出場。2000年以降は、二桁数出場に留まりましたが、貴重なムードメーカーとしてチーム不可欠な存在となる。2005年、一度も一軍試合に出場できなくなり、引退を決意。 2006年、ニューヨーク・ヤンキースにコーチ留学。2007年、独立リーグ・新潟アルビレックスの初代監督。2012年、東海大学野球部臨時コーチ。2013年、再びヤンキース特別コーチ就任。2013年から古巣巨人に復帰して、二軍育成コーチ、内野守備走塁コーチ、三軍外野守備走塁コーチを歴任。 通算成績は835試合、1,264打数332安打、30本塁打、119打点、20盗塁、打率.263。中京高卒、185センチ、85キロ。右投左打 |
名門・中京高校4番として、甲子園でも全国ベスト8達成
後藤孝志は、1969年、愛知県一宮市で生まれます。中日ドラゴンズのお膝元のため、幼い頃からファンになり、子供向けファンクラブ「少年ドラゴンズ」の会員にもなっていました。小学生時代は捕手を務めており、1学年上の近藤真一とバッテリーを組みます。その後、野球の名門校・中京高校に進学して甲子園出場を目指しました。
1年、2年と県予選で敗退しましたが、3年夏は強打を誇るチームの4番として活躍します。決勝でも本塁打を放つなどマルチ安打を記録して、中京高校として22度目の夏甲子園出場を決めました。そして、自身初の聖地でも全国強豪を倒していきます。初戦を大勝すると、2回戦の池田高校戦は延長10回サヨナラ勝ちしました。3回戦も勝ち上がってベスト8に名乗りを上げます。準々決勝は、島田直也率いる常総学院戦で、後藤も初回にタイムリーを放つなど4点を先制しました。しかし、仁志敏久に本塁打を浴びるなど、終盤に逆転されて涙を呑みます。その後、常総学院は決勝まで駒を進めましたが、春夏連覇を達成したPL学園に敗れました。
ドラフト2位で巨人入団も、厚いレギュラーの壁に遮られる
1987年ドラフト会議では、甲子園春夏連覇を達成したPL学園から主力3選手が上位指名されます。巨人は、投手・橋本清を1位指名すると、2位で高校通算33本塁打の後藤孝志を指名しました。同年の巨人は、王貞治監督就任4年目にして初優勝を成し遂げ、内野陣はまさに脂が乗ったレギュラー陣が揃います。一塁・中畑清、二塁・篠塚利夫、三塁・原辰徳の全員が打率3割達成と割ってはいる隙はありませんでした。
磐石なレギュラー陣に、自身は高卒ルーキーということもあって、まずはファームスタートとなります。入団から3年間、一度も一軍出場機会がありませんでしたが、3年目の1990年には、イースタンで打点王を奪う程力を付けました。そして、プロ4年目の1991年、代打としてプロ初出場を果たします。同年は17試合に出場して初安打を記録しましたが、翌1992年は再びオールファーム、1993年からの2年間もほとんど出場機会は無く、入団6年間で安打はわずか3本でした。
8年目に一軍に定着し、左の代打や代走などで出場を増やす
1995年からは、外野手も守れるユーティリティプレイヤーとして、出場機会を増やします。後半に入ると、俊足を買われて1番打者、またパンチ力を期待されて6番打者での先発に抜擢されることもありました。同年は、51試合出場でプロ初本塁打を含む4本塁打、打率.343と少ない打席ながら左の代打としてのアピールに成功します。その甲斐あって、1996年は59試合と前年と変わらない試合数ながら、プロ入り初めてシーズン100打席を越えました。同年の巨人はメークドラマと呼ばれた11.5ゲーム差を跳ね返して逆転優勝を飾ります。日本シリーズでは、代走、代打など出番はごく限られたものでしたが、全5試合に出場しました。
ムードメーカー的存在であり続け、印象に残る安打を記録
準レギュラーとなった後藤孝志でしたが、常時フル出場するレギュラーへの道は険しいものとなります。それでも、内外野どこでも守れる守備力、そしてガッツあふれるプレーなどムードメーカー的な存在となって、多くのファンを魅了しました。1998年からは、2年連続で100試合以上の出場をクリアし、1999年には7本塁打を放つなど当時の長嶋茂雄監督の期待に応えます。2000年、94試合出場に留まりましたが、打率.269、6本塁打などリーグ優勝に貢献し、日本シリーズでも2試合に先発出場しました。
その後、毎年70試合前後の出場が続きましたが、印象に残る働きを見せます。2002年、原辰徳監督初年度は、松井秀喜を中心とした強力打線や、エース上原浩治などが投打に圧倒してリーグ優勝を奪還しました。日本シリーズでも、西武を圧倒して一気に3連勝して王手をかけます。スイープを狙う第4戦、西武はエース松阪大輔をリリーフで起用しましたが、1点を勝ち越した後に代打で登場して、ダメ押しとなる2点タイムリー3ベースで勝負を決めました。2003年には4月の阪神戦で、6点ビハインドの9回裏、味方が反撃して3点を返し二人のランナーがいる時に代打起用されます。すると、藤川球児から起死回生の同点3ランを放ちました。
チームの低迷と同時に世代交代が進み、36歳の年で現役引退
2004年から堀内恒夫新監督が就任すると、前年と変わらない68試合に出場しましたが、打撃不振に陥ります。すると守備固めのみの出場が多くなり、打席数は前年からはほぼ半減して、打率も.208と低迷しました。2005年は、突如1試合も一軍に出場できなくなり、かつて10番目の野手といわれたハッスルマンが姿を消します。チームは、まさかのBクラス5位に転落して、世代交代の波が押し寄せました。当時、生え抜き18年目のベテランだった後藤孝志もその対象となります。ともに引退する西山秀二、元木大介らと、10月の引退試合が行われて、現役生活に別れを告げました。
ヤンキースのコーチ留学を経て、古巣巨人に指導者として復帰
現役引退後は、原辰徳の勧めで、ニューヨーク・ヤンキースにコーチ留学します。その後はアルビレックス新潟初代監督、東海大学野球部臨時コーチなどを歴任し、再びヤンキース特別コーチも経験しました。そして2013年11月、古巣巨人のコーチとして復帰します。二軍育成コーチ、内野守備走塁コーチなどを務め、現在は三軍外野守備走塁コーチを務めています。