名前藤田学(フジタマナブ)
生年月日1955年5月9日
日本
出身愛媛県南宇和郡一本松町(現:愛南町)
プロフィール南宇和高校時代の2年秋、ノーヒットノーランを達成。3年間甲子園出場経験なし。

1973年ドラフト1位で南海から指名。2年目にウエスタンで最多勝獲得。3年目の1976年に11勝(3敗)をあげ新人王受賞。翌年から2年連続16勝をマークするなど低迷南海の若きエースとして活躍。

1979年の初の開幕投手抜擢も右足内転筋負傷で戦線離脱。1981年に、3年ぶりの二桁勝利を挙げて復活。しかし武器である球威を失い、1986年現役引退。

その後も球団に残り投手コーチに就任。退任後、テレビ解説者となる。1995年投手コーチに復帰。2001年10月オリックスコーチ。2004年、沖データコンピュータ教育学印監督を歴任。2009年からはソフトバンクスカウトに転身。

通算成績は213試合、72勝65敗1S、防御率3.88、1,186回1/3、422奪三振。新人王。南宇和高卒、右投右打、180cm、76kg

わずか部員10名の野球部の絶対エースとして県ベスト4進出

藤田学は、愛媛県南宇和郡一本松町(現:愛南町)に生まれ、地元の南宇和高校に進学します。自身含めて部員わずか10名という野球部では、大黒柱のエースに就任しました。2年夏の県予選では、松山商業に敗れましたが、秋季大会初戦でノーヒットノーランを達成して一躍注目されます。そして、甲子園出場の最期のチャンスとなった3年夏の予選に挑みました。

貧打線のため2戦連続で辛勝して準々決勝に進出し、西本聖率いる松山商業との対戦を迎えます。チームは3試合連続でわずか2得点でしたが、藤田が見事な完封を成し遂げました。準決勝では、好投手・矢野隆司がエースを務める今治西に立ち向かいます。4試合連続で完投しましたが、打線は完封、藤田も3失点して甲子園出場の夢は叶いませんでした。

ドラフト1位で南海入団後、2年目にウエスタン最多勝を達成

1973年のドラフト会議では、南海ホークスが藤田学を1位指名します。同年、野村克也選手兼任監督にとって、初のリーグ優勝を実現した年であり、将来性を考慮して全員高校生を指名しました。甲子園出場経験こそないものの、本格派右腕は江川2世とも呼ばれます。即戦力で働ける可能性もありましたが、野村監督は高卒ルーキーをファームスタートさせました。

その背景はもちろん身体造りという大きな目的のほかに、監督が勧めるシンキングベースボールをしっかり根付かせるという意図もありました。野村監督、ドン・ブレイザーヘッドコーチが浸透させた野球は奥深く、チームのサインも相当複雑になります。投手として、クイックモーションや牽制球など、監督が求めるレベルに到達するまでは一軍に呼ばれないことになっていました。藤田は2年目からファームで主力投手となると、どんどん勝利を積み重ねます。それでも一度も一軍昇格を果たせないでいると、ウエスタンリーグで16勝3敗、防御率1.68という圧巻の成績をあげて歴代最高勝利数で最多勝に輝きました。

3年目に、11勝&リーグ2位の防御率をマークして新人王受賞

プロ3年目の1976年、満を持して一軍戦力としてシーズンをスタートさせます。前年、チーム状況が思わしくない中でも、野村克也監督は頑として一軍に昇格させませんでした。プロ初登板をリリーフで経験すると、後半には先発ローテーションに入ります。当時は、先発、リリーフにフル回転することも当たり前の時代でしたが、大事に育てられてチームに貢献する投手となりました。同年は、27試合に登板して、11勝3敗、防御率1.98という素晴らしい成績を残します。防御率は村田兆治に次ぐリーグ2位の好成績で、同年のパ・リーグ新人王を受賞しました。

2年連続チームトップの16勝でローテーションの柱として活躍

順調に階段を登った藤田学は、1977年チームのエースとして働きます。開幕投手こそベテラン山内新一に譲りましたが、チープトップの31試合に先発して、同じくトップの16勝をマークしました。同年は、初めてオールスターゲームにも出場して、名実ともに球界トッププレイヤーの仲間入りを果たします。チームは前年まで先発を務めていた江夏豊を、リリーフエースに固定してペナント奪還を試みましたが、前期2位、後期3位に終わりました。

そのオフには野村克也監督の解任問題が勃発し、江夏もチームを去ります。後任監督に広瀬叔功が着任しましたが、中心打者・柏原純一も欠いた事もあって、前後期ともに最下位と大きく低迷しました。そんな中でも、藤田は一人エースとしてチームに貢献します。他先発投手が、前年から軒並み成績を落とす中、2年連続16勝、リーグ4位の防御率2.87と低迷するチームを支えました。

一時復活を見せるも球速を失い、晩年は輝くことなく引退

1979年には、山内新一から初めて開幕投手の座を奪います。しかしそのマウンドで右足内転筋を痛めて長期離脱しました。夏場に戦線復帰しましたが、不調が続き同年はわずか2勝に終わります。同年、山内が12勝と踏ん張るも、藤田学の不在は大きく、2リーグ制以降初となる2年連続Bクラスでシーズンを終えました。翌年も3勝、防御率5.56と不調から抜け出せずに終わります。チームも最下位に終わり、ついにホークスの長い暗黒時代に突入しました。

ところが、プロ8年目の1981年、序盤から先発として勝ち星を重ねて復活を見せます。後半に失速したものの、3年ぶりの二桁13勝をマークしました。しかし、藤田が輝いたのは同年が最期となります。かつての速球は鳴りを潜め、トレード要員にも名前が挙がるようになりました。技巧派に転身して5年間で11勝を積み上げましたが、1986年の登板はわずか1試合に終わります。そして同年、31歳の若さで現役引退を決意しました。

指導者として長らくホークスに務め、現在はスカウト転身

引退後も南海に残って、指導者生活をスタートさせます。福岡ダイエーホークスの新球団となっても合計11年にわたって、主に投手コーチの職を全うしました。1999年、2000年には自身が味わえなかったリーグ優勝、ならびに日本一も経験します。その後も、オリックス・ブルーウェーブの一軍投手コーチ、沖データコンピュータ教育学院の監督も歴任しました。2009年からは、福岡ソフトバンクホークスにスカウトに転身します。2010年には実子・卓史が東芝の社員として都市対抗野球大会に出場し、MVPにあたる橋戸賞を受賞したことでも脚光を浴びました。


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