名前三村敏之(ミムラトシユキ)
生年月日1948年9月19日
日本
出身広島県安芸郡海田町
プロフィール海田中ではエースで4番、広島商では2年生まで投手、3年生のとき1番遊撃手として甲子園に出場。

1966年ドラフト2位で広島カープに入団。4年目に遊撃手レギュラーを奪うと、1975年の球団創設初優勝に貢献。その後怪我などで調子を落とすも、1979年、カムバック賞を受賞する活躍で復活して、初の日本一にも貢献。1980年の連続日本一にも貢献するも、その後は準レギュラーに降格。1983年、9試合出場に終わり同年現役引退。

1984年からコーチ、1991年二軍監督を経て、1993年一軍監督に昇格。前年最下位のチームを、いきなりAクラスに浮上させる。その後も4年連続Aクラス確保も、1998年は5位に転落して監督辞任。

2004年から2シーズン広島ヘッドコーチとして復帰。2008年、楽天の編成部部長としてフロント入り。2009年、病気を悪化させて11月に心不全で死去。

通算成績は1,567試合、4,890打数1,245安打、149本塁打、490打点、49盗塁、打率.255。ベストナイン3回、カムバック賞。広島商卒、右投右打、173cm、71kg

広島商業時代の3年夏、甲子園出場するも悔しい初戦敗退

三村敏之は、広島県安芸郡海田町で生まれます。同じ町出身で4つ年上の大下剛史とは、幼馴染であり、ともに草野球を楽しみました。そして、幼稚園から小中高と大下と同じ軌跡をたどります。名門・広島商業高校では、投手として甲子園を目指しました。1年秋の広島県大会を制したチームでしたが、中国大会で敗れてセンバツ出場を逃します。

当時の広島県は広陵高校が4年連続出場するほど猛威を振るっていました。しかし、3年最期の夏、2年生エース山本和行が中心となり3回戦で広陵を破ると、勢いに乗って広島県大会を制します。初の甲子園では1番遊撃手として出場しましたが、相手を上回る安打を放ちながら初戦敗退しました。

遊撃手レギュラーとして、広島の球団創設初優勝に貢献

1966年のドラフト会議において、地元広島カープから2位指名を受けて入団します。当時の広島二遊間は、二塁手・古葉竹織、遊撃手・今津光男がレギュラーを務めていました。三村敏之はルーキーイヤーから一軍出場を続けましたが、3年間準レギュラー的存在となります。しかし4年目の1970年、今津から遊撃手レギュラーを奪い取りました。俊足の三村は、1番もしくは2番として上位打線に名を連ねます。打撃は不得手でしたが、1972年には突如リーグ2位の打率.308をマークしました。

広島カープは、1950年の球団創設以降、24年間でAクラスはわずか1回と低迷します。1975年からは、ジョー・ルーツに監督を任せて、弱いチームからの脱却を図りました。現在にもつながるチームカラーを赤に変更、コンバートなどに加えて、トレードで大下剛史も緊急獲得します。ルーツは4月の試合で退場処分を受けたことを不服として辞任しましたが、ヘッドコーチの古葉が代行監督に就任しました。すると、大下・三村の1,2番コンビ、山本浩二の衣笠祥雄の強力クリーンナップが機能して赤ヘル旋風を巻き起こします。シーズン終盤まで勢いを持続させて、ついに球団創設初優勝を実現しました。

内野ならどこでもこなせる守備力で、2年連続日本一に貢献

1976年も自身初のフル出場を達成するなど、チームの主力を務めます。1977年からの2年間、アキレス腱痛に高橋慶彦の台頭で出場機会を減らしましたが、新たに二塁手として復活しました。1979年、2番打者ながら打率.288、60打点を挙げるなど大きく貢献して、4年ぶりのリーグ優勝を実現します。さらに、続く日本シリーズでも二塁手や三塁手としてフル出場して、広島初の日本一に貢献しました。シリーズで7安打かつ守備の貢献もあって、技能賞を受賞し、オフにはカムバック賞も手にします。翌1980年は、準レギュラーに降格しましたが、チームは2年連続日本一を達成しました。1982年以降は、代打メインでの出場に限られます。そして1983年、9試合の出場に終わり、17年間の現役生活に別れを告げました。

監督として最大の優勝チャンスは、巨人の引き立て役に終わる

引退直後から広島コーチに就任すると、1991年からは3年間二軍監督を務めます。そして、次世代を担う金本知憲、江藤智ら多くの若手に厳しい指導を施しました。1991年の広島カープは、山本浩二監督のもとで6度目のリーグ優勝を実現しましたが、翌年から不振に陥ります。1993年は、正捕手・達川光男の穴を埋められず、19年ぶりの最下位に沈みました。

山本監督が引責辞任したことで、三村敏之が次期監督に就任します。かつての黄金時代を担った主力が不在であったため、強力に世代交代を進めました。金本、さらに緒方孝市らを積極的に起用し、捕手には西山秀二を抜擢します。すると投打がかみ合い、一時は10連勝するなど前年の最下位から一気にAクラス浮上を実現させました。就任2年目の1995年には、江藤が長距離打者として覚醒して2冠王、野村謙二郎がトリプルスリー達成など2位を確保します。そして1996年は開幕から快調に首位をキープしました。しかし、夏場に江藤が怪我で離脱、さらに巨人の猛烈な追い上げをくらい、最大11.5ゲーム差を逆転されて優勝を飾られます。巨人にとってはメークドラマでしたが、広島にとっては世紀の大失速の3位で終わりました。

5年間で4度のAクラス、有力選手育成など確かな手腕を発揮

その後も広島で指揮を執りましたが、就任5年目の1998年に自身初のBクラス5位に沈み、同年で監督を退きます。それでも、5年間でAクラス4回と安定した順位を実現しました。そして何よりも多くの主力を育成したことは大いに評価されています。江藤智は2度の本塁打王、緒方孝市は3年連続の盗塁王、金本知憲は鉄人として連続フルイニング出場記録をスタートさせるなど、球界を代表するプレイヤーを育成しました。

楽天編成部長として2年と経たないうちに、病気で永眠

その後は解説者生活、2004年から再び広島のコーチを2年務めます。そして2008年、初めて広島以外のチーム、東北楽天ゴールデンイーグルスの編成部長に着任しました。楽天は、2005年に産声をあげて、野村克也監督の元、何とか最下位を脱出します。慢性的な戦力不足が否めないチームにおいて、広島カープの野球をモデルにしていたことから、後の監督就任も約束されたフロント入りでした。

しかし、2009年に肝臓疾患を患い療養を余儀なくされます。それでも、同年のドラフト会議にも出席するなどチームに尽力していました。そして悲劇はあまりにも突然に訪れます。そのドラフト会議からわずか4日後に体調不良を訴え入院すると、翌日には帰らぬ人となりました。61歳という若すぎる死に、球界は涙に暮れました。


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