小野剛について
名前 | 小野剛 |
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生年月日 | 1962年8月17日 |
国 | 日本 |
出身 | 千葉県船橋市 |
プロフィール | 筑波大学サッカー部で右サイドバックで活躍し、副主将を務めた。同大大学院に進学後コーチに転向。昭和60年から平成2年まで同大コーチを務め、その間62年から英国に留学。イングランド上級コーチや、全米国上級コーチの資格を取得。その後、成城大学の監督を経て、サンフレッチェ広島の育成担当に。6年日本サッカー協会の強化委員になり、「強化指導指針」の作成や、指導者ライセンス講習会のカリキュラム作りなどに携わる。Jリーグ技術委員も務め、8年Jリーグの監督に必要なS級ライセンスを取得。分析家として知られ、同年のアトランタ五輪でも対戦相手ブラジルの極秘情報を入手し、マイアミの奇跡と呼ばれた劇的勝利を演出した。10年W杯フランス大会日本代表コーチ、11年U−15日本代表コーチを務める
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大学時代から指導者の道へ
サッカー選手としてのキャリアはゼロの小野剛ですが、もちろん学生時代はサッカー選手としてプレーしていました。高校ではサッカーの名門校である船橋高校に進学し、さらに大学は筑波大学に進み、体育専門学を学びました。
この時もサッカー部に在籍していましたが、この頃の筑波大学には松田浩、風間八宏、鈴木淳、望月一頼らの後の名選手が目白押し。そのため、小野はサッカー部に在籍しているとはいえ、3軍と4軍チームを行ったり来たりする状態に。しかし、部をまとめる統帥する力は当時からあったようで、大学4年生のころには副キャプテンを務めるほどでした。
85年に大学を卒業すると大学院に進む傍ら、コーチとして教えるようになります。この頃から指導者としてのキャリアを積み重ねるようになった小野は87年からはイギリスに留学して指導者としてのスキルを積んでいきます。帰国後には成城大学で教鞭をとる一方、94年に全米サッカーコーチ協会公認上級コーチライセンス、イングランドサッカー協会公認上級コーチライセンスを取得し、指導者として一流のスキルを持つようになりました。
マイアミの奇跡をデータ分析で演出
小野剛が指導者としてキャリアアップしたころ、日本にはプロリーグのJリーグが誕生したばかりでした。大学時代の先輩や同級生、そして後輩たちが華々しくピッチに立つ姿を見ながら、小野はコーチとしてのスキルを積んでいきました。そんな小野が評価されたのは96年。JFA技術委員を務めていた今西和夫にスカウトされたことでした。
卓越した小野の技術指導のスキルを見た今西はすぐにサンフレッチェ広島の強化部コーチとして小野を招聘。この時は文字通り若手の強化にあたり、若年層の選手たちの育成に従事しました。この年にJリーグ監督に就任するために必要なライセンスを獲得した小野ですが、小野の存在がクローズアップされたのはアトランタオリンピックでのことでした。
このオリンピックで日本代表は世界最強と称されたカナリア軍団、ブラジル代表と対戦。1-0で勝利して後に「マイアミの奇跡」と呼ばれるジャイアントキリングを果たしましたが、これに一躍買ったのが小野でした。小野はこの試合前にスカウティングを担当していて、ブラジル代表の主力選手たちのデータをすべてチェック。弱点や日本が勝つために必要な情報等をすべて入手して監督や選手たちに伝授。小野の正確な情報分析のおかげであの勝利が生まれたといっても過言ではなく、サポーターたちにも小野の存在を示す出来事になりました。
サンフレッチェ広島を1年でJ1へ
コーチとして徐々に実績を作り出していた小野剛。マイアミの奇跡の効果は絶大で、97年に日本代表監督に就任した岡田武史の希望もあり、アシスタントコーチに就任。そしてフランスワールドカップでもコーチとして現地に入るなどその地位を徐々に確立していきました。
ワールドカップ終了後にはJFA、日本オリンピック委員会の若年層強化スタッフとして活躍。長らくコーチングやや若手育成と言うポジションがほとんどでしたが、02年にはとうとうU-21の日本代表ヘッドコーチ、U-23日本代表の暫定監督として就任。トゥーロン大会では松井大輔、阿部勇樹、そして山瀬功治らを抜擢して見事に3位入賞を果たすなどの結果を残しました。
小野の指導力、そして監督としての適性を見たサンフレッチェ広島はこの年の9月、木村を復帰させ、ヘッドコーチの役職に就かせます。クラブはJ1残留争いをするほど低迷していまいたが、戦術が定まらない状態では勝てないとばかりに10月からは小野が監督権も持つヘッドコーチとなり指揮を執るように。結果的にJ2に降格してしまいましたが、方向性が見えたサッカーはクラブ内外でも好評で翌年から小野は正式な監督に就任しました。
監督就任後の小野は3年以内でのJ1昇格を目指し、積極的に若手選手を起用するように。森崎和幸、森崎浩司、そして駒野友一らを育て上げることに尽力する一方、佐藤寿人の獲得など選手補強の面でも余念がありませんでした。
地道な指導の下、広島はすぐに復活。02年の天皇杯でベスト4に入ったのを皮切りに、03年のシーズンはJ2で快進撃を続けて、翌年のJ1昇格を達成。たった1年でのJ1復帰は小野の手腕を証明するものでした。
岡田武史を代表監督に再プッシュ。南アフリカW杯へ
小野剛はその後もサンフレッチェ広島の監督として采配を振るいますが、04年は総合12位、05年は前半快進撃を見せたものの、後半で失速して7位と徐々にその権威も失墜。06年にはとうとう途中解任にまで追い込まれます。
06年のシーズン途中から小野は日本サッカー協会の技術委員長に就任。イビチャ・オシムが監督の座を降りた日本代表の監督の座に自身を見出してくれた岡田武史を再度就任させ、南アフリカワールドカップの躍進につなげました。
14年から2年間、ロアッソ熊本の監督に就任しますが、さしたる実績も残せないまま辞任。現在はFC今治の育成コーチに就任しています。