大塚明について

名前 大塚明
生年月日 1971年2月6日
日本
出身 大分県別府市
プロフィール 平成6年ドラフト3位で千葉ロッテマリーンズに入団。高校では投手だったがプロ入り後野手に転向。右投右打。184センチ、83キロ

無名の高校生がロッテからドラフト指名を受ける!

大塚明が野球を始めたのは小学生のころ。その頃から運動神経の良かった大塚は高校も野球部に入部して活躍。しかし、別府羽室台高校は決して甲子園大会に出場するような強豪校ではなかったうえ、大塚が在籍していた当時も大分県内でさほど強い学校と言うわけではありませんでした。そのため、プロのスカウトもあまり注目することのないまま、93年のドラフト会議を迎えました。

この年のドラフト会議と言えば、逆指名制度が始まった年。そのため、多くのチームが大学、社会人選手の逆指名を取り付け、高校生への指名が激減しました。多くのチームが高校生をあまり指名しなかった中、敢然とこう講師中心の指名を敢行したのが千葉ロッテマリーンズでした。

この年のロッテのドラフトは1位こそNTT東北の即戦力投手である加藤高康を指名しましたが、7人中4人が高校生と言う将来性を考えたドラフト指名を展開。その中の3位指名で大塚を指名しました。

ここまで無名中の無名とも言える大塚の指名にファンは驚かされましたが、大塚のポテンシャルの高さをチームが評価してのもの。しかし、大塚の評価の対象は投手としてではなく、打者としての才能でした。そのため、大塚は投手指名ではなく、内野手指名でロッテに入りました。

ショートコンバートも守備に悩む

プロ野球選手となった大塚明。最初の1年は当然ながら、二軍での体力づくりに当てられました。しかも大塚の場合はプロに入ってからの内野手コンバートだったために、守備練習も重要なポイントに。しかし、ショートを守った大塚はスタメン起用で使われましたが、慣れないポジションだったこともあってエラーを連発。結果的にこの年、34コもエラーを記録しました。投手出身だっただけにショートの機敏の動きができなかったことでエラーを重ねてしまいましたが、これを機に大塚は外野へコンバートされます。

投手出身の大塚は強肩が持ち味の選手でした。それだけに内野で肩を生かせるショートについていましたが、この頃からロッテの内野陣は充実し始めたこともあり、逆に手薄になりつつあった外野へとコンバート。苦手の内野守備から離れた大塚はこれを機にのびのびとプレーするようになり、次第に持ち味の俊足を生かしたプレースタイルで二軍でも台頭していきます。

大塚が一軍に昇格したのは97年の6月。最下位を独走していたチームの起爆剤になることを期待されての昇格でしたが、ヒットがなかなか出ずといった状態で一軍と二軍を行ったり来たりするように。結局この年は主に守備固めで28試合に出場。二軍では盗塁王に輝く活躍を収めただけに走塁面でも期待されましたが、一軍では3回走って2回成功させる程度の数にとどまりました。

背番号変更で台頭も打撃に悩まされる

今一つ開花しないまま、大塚明は6年目を迎えました。しかしこの年は背番号を「23」に変えたこともあり、心機一転、新たなスタートになることを期待されました。

前年に18連敗を喫して最下位に沈むなど、この年もロッテは今一つな成績に終わりましたが、大塚自身はこの年飛躍。自身最多となる107試合に出場し、一時は3番打者を任されるほどの急成長を遂げました。俊足で勝負強い打撃も大塚の持ち味でしたが、その一方で状況判断に優れた外野守備が何よりも魅力。同期入団となった諸積兼司とともに鉄壁の外野陣を形成していきました。

しかし、この年の打率は2割2分と今一つ。しかもこの頃のロッテには名打撃コーチと名高い、高畠導宏が始動したこともあって、ロッテの若手たちは次第に打撃成績を伸ばすようになっていきましたが、大塚だけは例外で、ほとんど変わらず。それどころかこの頃から故障に見舞われるようになり、またも出場機会が激減。01年から04年までの4シーズンで100試合はおろか、50試合も出場できないという年が続きました。

スーパーサブとしてロッテの日本一に貢献

年々、存在感が薄くなっていった大塚明ですが、その素質は誰もが認めるところ。故障も完治した05年、とうとう大塚はブレイクを果たしました。

この年のロッテはボビー・バレンタイン監督のもとで「適材適所」な起用法がなされました。レギュラーと呼べる選手はいるにはいましたが、4番にサブローを置いて「繋ぐ4番」という新しい発想のもとで選手が多数起用されるようになりましたが、大塚もそのひとり。俊足を生かしたプレーでロッテの外野陣を守ります。この堅守もあって、ロッテは2位につけ、さらに短期決戦のCS、そして日本シリーズでも優勝。大塚の野球人生で初となる日本一を経験しました。

スーパーサブの地位として確立した大塚ですが、翌06年は大不振、さらに07年は故障に見舞われ、またも一軍の道が遠のいてしまいました。しかし08年、大塚はスーパーサブらしく負傷したサブローの穴を埋める大活躍を収めて103試合に出場して復活。この年でFA権を取得しますが、長年在籍したチームから離れることを拒んで行使せずに残留します。

ところが、これが大塚の最後の輝きになりました。翌年からまたも故障に見舞われ、10年には一軍出場すらゼロ。度重なる故障に勝てず、この年を最後に大塚は現役を引退。コーチへと転身しました。


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