150人以上の選手に性的虐待を繰り返した元チームドクター、ラリー・ナサール

米ミシガン州の裁判所は、米国体操協会の元チームドクター、ラリー・ナサール被告が性的虐待を加えていたとして、最長で175年の禁錮刑を言い渡した。少なくとも150人以上の選手が被害に遭ったことを明らかにしている。被害者があまりにも多い。しかし、これだけの被害者が声を上げたことによって、ようやく元ドクターによる性的虐待を明らかにし、罰することができたともいえる。

ナサールは1986年にアスレチックトレーナーとして米国体操協会で仕事を始め、1996年には同協会のナショナル・メディカル・コーディネーターとしてアトランタ五輪に帯同。被害者の証言によると、1990年代半ばから選手たちに性的虐待を繰り返してきたという。20年間も医師という立場を悪用し、治療と装って、罪を犯していた。

元チームドクターの性的虐待が明らかになったきっかけは、米国体操協会が拠点を置く米インディアナ州の新聞、インディスター紙の報道だった。

ただし、インディスター紙も最初からナサールの犯罪をスクープできたわけではない。同紙は2016年8月に米国体操協会が、複数にわたってコーチらが性的虐待しているとの報告を受けながらも、法執行機関に通報せず、内部調査も行っていなかったなどと伝えていた。この時はまだ、ナサールの犯罪を掴んでいなかったのだ。

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被害者が次々に声を上げ、ナサール逮捕へ

けれども、この記事は一人の被害者の背中を押した。レイチェル・デンホーランダーさんだ。デンホーランダーさんは、ミシガン州立大学でナサールの診察を受け、被害に遭っていた。記事を読んだデンホーランダーさんはミシガン州立大学警察に過去の被害を訴え、同時にインディスター紙にメールを送信。もう一人、カリフォルニア州に住む元オリンピック選手も性的虐待を受けたとして、ナサールと米国体操協会に対して訴訟を起こした。インディスター紙は2016年9月、デンホーランダーさんの取材を中心にナサールの性的虐待を報じた。ナサールはこの時、罪を全面的に否定した。

同紙の報道によって、性的虐待を受けながら沈黙していた選手たちが次々と出てきた。そして同年末、児童ポルノなどの罪でナサール逮捕に至ったのだ。

2017年秋。女優アリッサ・ミラノさんの呼びかけにより「Me too(私も)」ムーブメントが起こった。米ハリウッドのプロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインの性的暴行が報じられ、多くのハリウッドスターやモデルが、ワインスタインによる被害を訴えた。これを受けてセクシャルハラスメントや性的暴行に立ち向かう動きが広がり、ミラノさんは「私も」と声を上げるよう、Twitterで呼びかけた。 

ロンドン五輪・女子体操の金メダリスト、マッケイラ・マロニーがTwitter上で「Me too」のハッシュタグを使い、自身もナサールの被害を受けていたことを明らかにした。米国代表の他の金メダリストも、これに続いて声を上げた。アリー・レイズマン、ギャビー・ダグラス、少し遅れてシモーネ・バイルズも声を上げたのだ。誰もが知っているオリンピック選手たちが加わり、ナサールの罪を問うための最後のピースが揃った。

ロンドン五輪・女子体操金メダリスト、マッケイラ・マロニー/(C)Getty Images

米スポーツ界を揺るがした2つの性的虐待スキャンダルの共通点

しかし、米国内ではナサールの性的虐待は「Me too」と関連づけるよりも、米ペンシルバニア州立大アメリカンフットボール部のアシスタントコーチが長年にわたり、少年に性的虐待をしていた事件と重ね合わせる人が多いようだ。こちらは2011年に発覚している。

2つの犯罪には共通点がある。スポーツ界を揺るがす大スキャンダルであること。長年にわたり、多くの未成年者に性的虐待をしていたこと。2人とも自ら慈善事業を立ち上げ、熱心に活動している「人格者」とみなされていたこと。ペンシルバニア州立大学では大学ぐるみで虐待を隠ぺい。一方、米国体操協会は、2016年末に金メダリストのマロニーに示談金を支払い、口止めをしていたという。ウォール・ストリート・ジャーナル紙が報じた。

ナサールは医師の立場を利用し、診察や治療と偽り、性的虐待を繰り返した。アメリカンフットボールのコーチは、慈善事業の活動で集めた少年たちと練習後にシャワーを浴び、性的虐待をした。ニューヨーク・タイムズ紙のコラム記事は「虐待者は自らを指導者や味方だと名乗り、あなたのスコアを上げることができる、成績を上げることができる、あなたに欠けているものを与えることができると言う。そして、少しずつプライベートな交渉を増やしていく」と彼らの卑劣な手口を表現している。

米国体操協会の元チームドクター、ラリー・ナサール/(C)Getty Images

虐待防止プログラム「SafeSport」があっても見過ごされた事件

米オリピック委員会は2012年から「SafeSport」というプログラムによって、不正行為の防止に努めている。体罰、暴力、性的虐待、いじめなどを防止する目的でつくられたプログラムだ。

(※ニューヨークに拠点を置くスポーツマーケティングコンサルタントの鈴木友也氏が、2013年に「SafeSport」プログラムについて紹介されている)

鈴木友也氏の記事はこちら

このプログラムでは、①告発者を保護すること、②「SafeSport」に報告すること、③法執行機関に通報すること、などが規定されている。しかし、先に述べたように米国体操協会は通報を受けた疑いのうち、いくつかのケースを何年も放置していた。また、医師が診察、治療するにあたっては、私的なスペースで行わないなどの規則があったが、ナサールがこの規則に従っていないのを米国体操協会は黙認していたようだ。

同協会は2015年に選手からナサールの性的虐待をされたと報告を受けて、数週間後にFBIに通報。しかし、その時に初めて虐待を知ったという主張は信じ難いたい。ナサールは2015年夏に同協会からひっそりと解雇されているが、本人は「引退」と主張しており、犯罪を隠し通そうとしていた。

優れた医師であり、人格者という社会的な評価。オリンピックで多くの金メダリストを輩出してきた米国体操協会のブランドとスポンサーからの収入。虐待防止システムに則って選手たちを守るよりも、これらを守り、組織を守ることを優先させた。ペンシルバニア州立大学の性的虐待事件も同じことだ。人気ある競技スポーツは英雄を生み出し、お金を生み出す。スポーツ組織は選手の存在あってこそだが、ブランドやお金の方が大切だったのだろう。

最初にインディスター紙にメールを送ったデンホーランダーさんは米メディアにこのように話していた。

「私の話が信じてもらえるときをずっと待っていたのです。インディスターの記事を読んだとき、今がその時なのだと分かりました。それですぐにメールを書いたのです」

一人で声を上げてもなかなか信じてもらえない。何人もの被害者の声によって、ようやく「優れた医師」の仮面を剥ぎ取り、悪魔の本性を明らかにすることができた。

米国体操協会は昨年7月に子どもの権利擁護団体と、虐待や性犯罪を専門にしていた検察官を職員に迎えた。今年1月には、米オリンピック委員会からの要求によって、理事が総辞職した。協会の膿を出し切り、SafeSportプログラムを立て直している真っ最中だ。

私はこれまでに、日本のスポーツ界の体罰に関連して、米国スポーツ界の体罰や虐待防止プログラムを紹介してきた。米国体操協会は、防止や報告のプログラムを持ち、手法を提示していても、卑劣な性的虐待を見過ごしてきたが、だからといって、プログラムが全く役に立たないとは思っていない。むしろ、犯罪防止プログラムづくりで立ち遅れている感のある日本のスポーツ界では、問題が表面化していないだけなのではないかと心配している。

<了>

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谷口輝世子

著者プロフィール 谷口輝世子

スポーツライター。1971年生まれ。1994年にデイリースポーツに入社。1998年に米国に拠点を移し、メジャーリーグなどを取材。2001年からフリーランスとして活動。子どものスポーツからプロスポーツまでを独自の視点で取材。主な著書に『帝国化するメジャーリーグ』(明石書店)、『子どもがひとりで遊べない国、アメリカ』(生活書院)、章担当『運動部活動の理論と実践』(大修館書店)。