文=大塚一樹

繰り返される“体罰”問題

車座になって座る選手たちの視線の先にはコーチと一人の選手。会話の内容までは聞こえないが、選手に詰め寄ったコーチが頭を何度も小突く。話しているうちにヒートアップしてきたのか、みぞおちへ強烈なパンチを数度見舞い、しまいには頬にビンタを張る―――。

動画を確認すると、一人の選手に対して目を覆いたくなるようなひどい暴力行為が加えられていることがわかる。なぜここまでしなければいけないのかと思うのだが、こうした“事件”が話題になるのは初めてのことではない。過去には少年サッカーの指導者が子どもたちを足蹴にした上に、ペットボトルで頭を殴って回る映像が拡散されたこともあった。

大阪市立桜宮高校のバスケットボール部主将が顧問教諭から暴力行為を受けた後、自殺するというショッキングなニュースが世間を騒がせたのが2013年。この事件をきっかけにスポーツ指導のあり方が大きくクローズアップされることになった。誘発されるように発覚した女子柔道強化選手の暴力告発など、当時はこうした話題を目にする機会も多く、日本のスポーツ指導が大きく変わる転換期になると期待されていた。

実際に、日本体育協会や日本サッカー協会(JFA)を始め多くの競技統括団体が、暴力行為の相談窓口を設けるなど再発防止へのアクションを起こした。指導のあり方を見直すガイドラインが策定され、「暴力行為は絶対いけない」という認知は以前より高まったように思える。しかし、2017年現在、動画のような行為は氷山の一角と言えるほどありふれている。

「体罰」という言葉を使うのをやめませんか?

多くのメディアは、この問題を “体罰”事件として報じている。当事者が刑事事件として傷害と暴行の罪で起訴され有罪となった桜宮高校の事件も、いまだに“体罰事件”と呼ばれている。

言葉だけの問題ではないが、明らかな“暴力”事件を“体罰”事件としている間は、「しごき」や「鉄拳制裁」を美化しがちな日本のスポーツの現場から暴力行為がなくなることはないのではないか。

体罰は“罰”だ。スポーツの世界には罰走、罰金、罰ゲームなど次元の違う、たくさんの罰が存在している。負けたこと、やる気が見られないことを罪として、罰を加えてやる気を引き出すやり方の是非はこの際置いておくとして、体罰を加えられた選手たちの罪とは一体何なのだろう?

「何度言ったらわかるんだ」「そんなこと教えてねーだろ」

よく取材するサッカーに限定しても、育成年代と呼ばれるカテゴリの試合会場では、言葉遣いの差異はあれ、こうした声がベンチから飛ぶのが日常茶飯事になっている。コーチはとにかく、「できない選手たち」に腹を立てているのだ。

こうした日本の現状をオランダ代表やオランダの名門で育成に定評のあるアヤックスでアナリストを務めている白井裕之氏と話題にしたことがあった。白井氏によると、オランダに限らずヨーロッパの多くの国では、「何度言ったらわかるんだ」と発するコーチは、暴言や威圧的な態度以前に、指導力、コーチング能力がないとみなされてしまうと言う。

何度言ってもできないのは、指導者の教え方のせい。教えたことができず、選手が教えてないプレーをしているとすればそれは、きちんとできるように教えられなかったコーチの責任というわけだ。

「選手のプレーに対する適切な分析と評価ができず、自分の主観だけで善し悪しを判断している。コーチにとっての良いプレーが、選手に共有されていない。要するにコミュニケーションの問題が事態を複雑にしている気がします」

今回の問題を受けて改めて連絡を取ると、白井氏からは客観的な分析指標に基づいて仕事をこなすアナリストらしい答えが返ってきた。選手たちが指導しようとしているレベルでプレーを実行できないとすればそれは指導者の責任。できなかった、ミスをしたことを理由に選手に罰を与え、怒りの矛先を選手に向けるのは指導者として恥ずべきことではないだろうか。

育成年代を中心にさまざまな種目のメンタルトレーニングを行っている藤代圭一氏も「コーチが一方的に教える人だという固定概念が問題」と、白井氏同様コミュニケーションの問題を指摘する。藤代氏は、「しつもん」を軸に子どもたちの自主性や主体性を引き出す「しつもんメンタルトレーニング」を提唱している。曰く、「正解はいつも子どもたちの中にあります」。指導者は、適切な質問によってその答えを引き出してあげる存在という考え方だ。

こうした考えを聞けば、指導者が選手に腹を立て、「ついカッとなって」手が出てしまうような事態は、そもそも起こりえないのではないか。指導者は伝えられなかったこと、自らのコミュニケーションを反省することはあっても、それを選手の罪にすり替えることはできない。体“罰”という言葉によって、被害者である選手に何らかの非があるように感じてしまう感覚があるとすれば、「体罰」ではなく「暴力」と表現するのが相応しいのではないか。

指導効果がないから暴力はダメ!?歪んだ勝利至上主義

今回の問題で、当該の外部コーチは解雇となり、次のような反省コメントを出している。

「生徒の態度がよくなかったので行き過ぎた指導をしてしまった。大変申し訳ない」

話題になっている動画に対しても、ネット上では「背景が知りたい」「余程のことがあったのでは?」「他人が告発したせいで、これを受け入れてがんばっている選手たちの努力が無駄になる」と言った論調の反応も聞かれた。実際、このコーチに対しても「熱心で良いコーチだ」という擁護の声も挙がっている。

この問題を「一人のコーチの人格の問題」、または「人格の優れたコーチがたまたま行き過ぎた指導を行ってしまった結果」で片付けていては、結局同じことの繰り返しになってしまう。

動画に寄せられた、まるで暴力を容認しているかのような意見の根底には、「勝つため」に効果があるなら暴力も致し方ないという、歪んだ勝利至上主義が見え隠れする。

選手や保護者、そして学校やクラブにとって良いコーチの基準は、ほとんどの場合「勝つこと」だ。甲子園出場、選手権出場、インターハイ出場など、全国大会に出場させることが大目的で、周囲はそれを果たすための方法論を一任する。そこが競技人生、ましてや人生のゴールでもないのに、そこにすべてを懸け、そのために多くのもの犠牲とすることを良しとする。近年では、選手の主体性に任せる指導法がクローズアップされているが、やり方やその後の成長よりも、「結果」に主眼が置かれている現状はなかなか変わらない。

暴力行為問題や部内でのいじめを告発する声が、“レギュラー”や“主力”から外れた選手やその親や、全くの外部から挙がるケースが多いのも、内部では「結果を出してくれるから良い指導者」という感覚がまかり通っているからかもしれない。

暴力を良しとする指導者や外野の声に「暴力は指導効果がないからやっても意味がありませんよ」という説得の仕方をするアプローチがあるが、この論理で言えば「効果があるなら暴力を容認する」ということになりかねない。

多くの識者が、暴力がいかに時代後れで、しごきに何の正当性もないことを強調しようとしてこうした発言をしているのはわかる。だが、指導効果というならば、それは全国大会出場や優勝と言った短期的な結果ではなく、選手個人の発展的成長、チームやクラブ、学校の成長もしっかりと見つめていかなければいけない。

暴力行為の問題、暴言、パワハラいじめの問題について真剣に取り組んでいる人はたくさんいる。市井の指導者に話を聞き、指導現場や試合を見せてもらっている限り、どのスポーツでも心ある指導者は決して少数派ではない。

にもかかわらず、なかなか現状に変化が見られないのは、新しい指導の考え方が出てきたとしても、問題意識を持っている人は熱心に取り組み、現状を変えたくない人はそれを否定する、単に「知らない」人は、いままでの経験や自分の体験で指導する。現状を変えたくない人をなくすためにはさまざまなハードルがあるが、知らない人に知ってもらうことはいますぐできる。

センセーショナルな事実や映像が飛び交う度に一から議論し直すループ状態。日本のスポーツ界もそろそろこの悪循環からから抜け出すときがきている。

<了>

大塚一樹

著者プロフィール 大塚一樹

1977年新潟県長岡市生まれ。作家・スポーツライターの小林信也氏に師事。独立後はスポーツを中心にジャンルにとらわれない執筆活動を展開している。 著書に『一流プロ5人が特別に教えてくれた サッカー鑑識力』(ソルメディア)、『最新 サッカー用語大辞典』(マイナビ)、構成に『松岡修造さんと考えてみた テニスへの本気』『なぜ全日本女子バレーは世界と互角に戦えるのか』(ともに東邦出版)『スポーツメンタルコーチに学ぶ! 子どものやる気を引き出す7つのしつもん』(旬報社)など多数。