躍進 アジアカップ広島1992

日本サッカー協会(JFA)がFIFAワールドカップの誘致を真剣に検討し始めたのは1988年だった。プロリーグを開設して選手強化を図り、ワールドカップで闘える代表チームをつくる。そして日本でワールドカップを開催するという方針を立てたのだ。92年アジアカップはそのための重要な試金石とみられていた。

JFAは1989年11月にワールドカップへの立候補を正式に決定し、1991年6月に招致委員会を発足させた。招致に向けてやるべきことは主に3つ。まずは競技力を上げ、ワールドカップ出場を果たすこと。2番目に国際大会の開催能力を実証すること。そして世界のサッカー界での政治力・発言力を高めることである。オランダからハンス・オフト監督を招いた代表チームは、三浦知良やラモス瑠偉を中心に力をつけ、8月に中国で開催されたダイナスティカップで優勝すると、その勢いそのままでアジアカップを制したのである。

採算度外視でスポンサーを集め、テレビの国際映像もNHKに頼み込んで確保した。大会の運営は大過なく進行し、日本代表の躍進のおかげもあってスタジアムには予想以上の観客が詰めかけ、盛り上がった。来日していたアルダバル理事ほか国際サッカー連盟(FIFA)やアジアサッカー連盟(AFC)の幹部は明らかに好印象をもって広島を後にした。

悲劇 ワールドカップアジア予選1993

自信をつけた日本代表は、翌年ワールドカップ・アメリカ1994のアジア予選に臨んだ。5か国が参加する1次予選は、日本とUAE開催のダブルセントラルによる総当たり制が採用された。国立競技場で行われたUAEとの最終戦は超満員。テレビ中継は日本テレビがNHK BSとのダブル中継に合意し、初の民放によるサッカー代表戦となった。日曜の午後にもかかわらず視聴率は24%を記録し、代表戦が国民的関心事となる先鞭をつけたのだ。

1次予選を突破し、カタールでのセントラル開催となった1993年秋に行われたアジア最終予選。民放テレビ各局が放映権確保に殺到し、収拾がつかなくなった。各試合を東京キー局の5局に配分したところ「残り物」の5試合目をテレビ東京が受け持つことになった。その試合、日本はイラクと引き分け、最後の最後でアメリカへの切符を逃した。10月28日、ドーハの悲劇である。これでFIFAの2002年大会開催国決定前に日本がワールドカップに出場し、世界にアピールする望みは絶たれてしまった。

落選 FIFA副会長選挙1994

広島アジアカップ、ワールドカップ1次予選、そしてアンダー17世界選手権JVC杯と国際大会を次々と誘致し、FIFAやAFC との絆は強まったかに見えた。そして1993年5月にはJ リーグが華々しく幕を開け、世界中から有名プレーヤーがやってきた。15自治体がワールドカップ開催都市に手を挙げ、日本全体がサッカーフィーバーに包まれたかのような雰囲気だった。

そのような中でJFAは、ワールドカップ開催国の決定権を持つFIFA理事会(エクゼクティブコミティ)に代表を送り込むべく戦略を練っていた。立候補したのは招致委員会の責任者でもあったJFA副会長の村田忠男氏。当選すればアジアを代表してFIFAの副会長を務めるという重責を担う。AFC総会での加盟国代表による投票で選ばれるのだ。国際派の村田氏は世界中に知己が多く、信頼されていた。しかしながら友人だからといって選挙で投票してくれるかはわからない。

現代グループの御曹司で国会議員でもあった鄭夢準氏は、1993年から韓国のサッカー協会の会長職に就いた。その時点でさらにその先を見据えた野望があったのだろう。1994年5月にクアラルンプールで行われたFIFA 副会長選である。最有力とみられていたのは、クウェートの王族でアジアオリンピック評議会(OCA)会長のシェイク・アハマド氏(以下シェイク)であった。しかし、鄭氏が急速に追い上げてきた。危機感を覚えたシェイクは日本に接近し、村田氏の立候補を取り下げて、日本が自分に投票してくれれば確実に選挙に勝てる。その暁には日本の2002ワールドカップ立候補を全面的に支持する、と打診してきたといわれている。しかし、独自にFIFA理事を立てたい日本はその提案を受けず、選挙に臨むことになった。結果は鄭夢準11票、シェイク・アハマド10票、村田氏は2票しか得られなかった。もしも日本がシェイクを信じ、引き下がっていたなら鄭夢準のFIFA副会長は実現しなかった可能性が高い。結果として、日本はワールドカップの単独開催を手繰り寄せたかもしれないが、これは神のみぞ知るである。

妥協 ワールドカップ2国共同開催

形の上で、2002年ワールドカップ招致に日本に対抗して手を挙げたのはメキシコだった。しかし同国は、のちに経済的理由から立候補を取り下げてしまった。最後になって名乗りを上げたのが韓国だ。1994年ワールドカップへの出場を3大会連続で決め、日本がドーハで涙を呑んだ直後のタイミングである。その後、日韓の招致運動は激しさを増していくのだが、最初から日本を支持していたアベランジェFIFA会長に逆らって、ヨーロッパサッカー連盟(UEFA)会長のレナート・ヨハンソンが韓国支持に回った。と言っても、韓国の単独開催には踏み込むことはない。FIFAの副会長でもあるヨハンソンは、連盟内の権力闘争で反アベランジェの先頭に立っていた。アベランジェに思い通りにはことが運ばないことを認めさせ、独裁に終止符を打つことが狙いだったといわれる。そのような緊張状態の中から生まれてきたのが2国共同開催案である。

共催案に最後まで反対したスポーツ界の有力者が少なくとも一人いた。FIFA理事会を1週間後にひかえた5月22日の水曜日。UEFAチャンピオンズリーグ決勝(ユベントスvsアヤックス)が行われるローマのオリンピックスタジアム。そのVVIP席にヨハンソン会長がいざなったのはシェイク・アハマドOCA会長であった。シェイクは鄭夢準に対する根強い不信感を持っていた。共催案はその鄭の野望実現に有利にはたらくに違いないとみていたのだ。ヨハンソンは粘り強く説得し、シェイクも渋々矛を収めたという。

1996年5月31日に予定されていたFIFA理事会での開催国決定を前にして、前日の30日にFIFAゼネラルセクレタリー(当時)のゼップ・ブラッターから日本代表団が事務局としていたチューリッヒのホテルの1室に共同開催を打診する連絡が入った。招致委員会が白熱の議論の末、実を取るとし、涙を吞んで共催案に同意したことは今や歴史の1ページである。


〔平成最大のビックイベントの裏側・前編〕
<了>

海老塚 修

著者プロフィール 海老塚 修

桜美林大学客員教授。専門はスポーツマーケティング。1974年慶應義塾大学卒業後電通入社。ワールドカップ、世界陸上、アジア大会などを担当。2010年より慶應義塾大学健康マネジメント研究科教授。現在日本BS 放送番組審議委員、余暇ツーリズム学会副会長などを務める。著書に『マーケティング視点のスポーツ戦略』、『スポーツマーケティングの世紀』、『バリュースポーツ』。日本ランニング協会認定ランニングアドバイザー。