摂食障害やうつ病、事故...。困難を乗り越え、競技の世界へ
――車いすバスケをするまでは球技に縁がなかったのですよね。
そうですね。3歳から中学生までピアノをやっていて、中学時代の部活は吹奏楽部でした。他の習い事も習字とそろばんで、全く運動はしてなかったんです。ただ、昔からやんちゃで、小・中学校の時は男子を蹴り飛ばしているようなタイプでした。高校では部活動で少林寺拳法を3年間やっていたのですが、ちゃんと認められる蹴りをしようと思って始めた感じです(笑)。
――その後、専門学校に在籍していた時に事故に遭われて車いす、バスケットボールに出会ったんですよね。
専門学校の入学後にいろいろなストレスがあって、摂食障害やうつ病になってしまった。そんな状況で事故に遭って、逆に生まれ変わったような気持ちになってスッキリしたんです。
なぜスッキリしたのかを考えてみたら、それまで人のことを頼ったことがあまりなかったんですよね。事故で病院に運ばれて全く動けない状態の時に、初めて親を頼った気がします。今まではすべて自分で抱え込んで苦しんできましたが、もっと人に頼って良いんだなと思って、気持ちが楽になりました。
――どのようにして車いすバスケットボールと出会ったのでしょうか?
障がい者のスポーツセンターでリハビリをしていた時に、車いすバスケットボールの体験教室がありました。興味本位で参加してみたらすごく楽しくて、次の週からチーム練習に参加しました。そのチームにはパラリンピアンの方がいて、その姿を見て私もパラリンピックを目指そうと思いました。
――車いすの競技はかなりの力を使うと思いますが、辛いと感じたことはなかったですか?
できないことに挑戦することのほうが燃えるタイプなので、あまり辛いと思ったことはなかったです。最初は摂食障害の影響で、食事もとれない状態の中でほぼ毎日練習をしていたので、周りからは運動ばかりではダメだと言われていました。技術的にもなかなか上手くならなくて、フリースローをしっかり決められるようになるまで2年くらいかかりましたね。
――摂食障害は徐々に克服されたのですか?
少しずつ食事の量も増えていって。食生活が整ってきたタイミングで、次は生活リズムを正すために近場でパートタイムに仕事を始めました。それまでは午前中は寝て午後から練習という流れだったので。
――仕事と競技を両立しながら、本来の生活を取り戻していったのですね。
そうですね。17時までパートをして、それから練習という流れに慣れてきた頃に、日本代表からも声がかかりました。ただ、当時の職場は人手が少なくて、合宿などで私が抜けてしまうと迷惑が掛かってしまう状況でした。いっそのこと辞めてしまおうと思っていた時に、ちょうど車いすバスケの知り合いの方から別の仕事を紹介していただいて。そこに就職して、働きながら日本代表の練習に参加していました。
障がいが軽い人と重い人が一緒にプレーできる
――体験会を通してパラリンピックに憧れ、日本代表にたどり着くというのは、すごく良い事例のように思えます。
女子の競技人口が74人くらいで、代表メンバーは12人。7人に1人は入れるんですよ。そうれを知ったときに、「頑張ればいけるのではないか」と思っていました。とはいえ、先天障がいを持って生まれて、小さい頃から競技をしている人もいるので、やはり技術的な差はありました。日本代表の中にも、先天性障がいの選手は結構多いです。
――車いすバスケットボールは、障がいの度合いによって選手の持ち点が違うのですよね。
障がいが一番重い選手は1点で、一番軽い選手は4.5点です。2点代以下の選手はロー・ポインター、3点代以上の選手はハイ・ポインターと呼ばれています。コートに立つ選手は5人で、選手の持ち点の合計が14点以下でないといけません。障がいが軽い人と重い人が同時に出ていて、交代する時はこの点数を考えないといけないので、あまり簡単には代えられないんです。ちなみに私は2.5点なので、ロー・ポインターに当たります。
――かなり複雑なルールのように思えます。
たしかに複雑ですが、このルールを考えた人はすごいなと。障がい者スポーツの中には、障がいの度合いや種類によって、クラスが分かれている競技が多いですよね。でも、車いすバスケは、障がいが軽い人と重い人が一緒にプレーできる。これは大きな魅力だと思っています。
――最初はどのような面が評価されて日本代表に入ったのですか?
私は車いすの操作がいまひとつでしたが、試合に臨む気持ちや、闘志を前面に出していたことが評価されていました。高校時代にやっていた少林寺拳法は声を出す競技だったので、その経験が生きていたのかもしれないです。
――日本代表として戦う中で、世界との差は感じましたか?
どの競技でも言えることかもしれませんが、相手の体の大きさには驚きました。筋肉があるので、車いすのスピードは早いですし、腕のリーチも長い。日本はもっと細かい動きの部分で戦わないといけないと感じましたね。
――普通のバスケと違って、ジャンプ力で補えないですからね。
そうなんですよ。それでも諦めようと思ったことは一度もないですけどね。私が代表に入ってすぐに東京パラリンピックが決まったので、とにかく出たいという気持ちが強くて。本当にタイミングに恵まれましたし、このチャンスをものにしたいんです。
自国開催のアドバンテージを生かし、表彰台入りを目指す
――自国開催の東京パラリンピックでは、環境面でのアドバンテージもあると思います。
時差がないですし、食事もいつもと変わらないので安心感はあります。障がいが重い人は、海外の硬水を飲むと消化不良になることがあるので。ベッドも日本の物のほうが慣れていますし、寝やすいです。カナダに遠征した時は、ベッドと枕がすごく硬くて、毛布もタオルみたいな感じで(笑)。睡眠の質はプレーに大きく影響するので、とても重要ですね。
――バリアフリーの面では、日本と世界で過ごしやすさに違いはありますか?
世界の方が過ごしやすいのではないかと思います。トイレが基本的に大きいので、車いすのまま入れますし、建物の中は整っています。ただ、おしゃれな石畳などは、車いすで通るとガタガタしますし、引っかかって転びそうにもなります。
――そういった海外での経験を含めて、車いすバスケットボールに出会って、人生が大きく変わったのではないでしょうか?
今まで少林寺拳法をしたり、専門学校に通ったりしていましたが、車いすバスケットボールに出会って、ようやく生きがいが見つけられたように感じました。今は講演会で私の経験を話す機会も増えていて、私が必ず伝えているのは「どんな経験も自分の力でプラスに変えられる」ということです。車いすバスケットボールも、事故がなかったらやっていなかったですからね。
――東京パラリンピックは、競技人生の集大成にもなるかと思います。
大会後のことはあまり考えずに、とにかく本番まで突っ走りたいです。理想はもちろん金メダルですが、チームとしては銅メダルを目指しています。日本は2大会連続で出場できていないものの、すべてが噛み合えば銅メダルの可能性はあるはず。そのために個人としては、私の武器であるミドルシュートを決めていきたい。大きい相手に対しては、ゴールの下で勝負するよりも、ミドルシュートのほうが効果的なので。
――本番はもちろんですが、それまでの体験会や講演会も含め、競技の認知度を上げる格好の機会が訪れています。競技の魅力や自身の経験をどのように伝えていきたいですか?
やはり体験会や講演会があることは大きいと思っています。子どもたちからすると、車いすに乗ることは、おもちゃで遊ぶような感覚ですよね。それでも、子どもの頃から車いすに触れる機会があれば、障がいに対する意識は変わってくるはず。乗ってみて楽しんでくれたり、身近に感じたりしてくれれば、それでいい。特に障がいがある子どもには、パラスポーツと出会うことで、私のように生きがいを見つけてくれたら嬉しいですね。何かしら楽しいと感じる競技はあると思いますし、人生がガラッと変わるかもしれませんから。
[PROFILE]
小田島 理恵(おだじま・りえ)
1989年4月1日生まれ。埼玉県出身。車いすバスケ女子チームGRACE所属。2013年から車いすバスケを始め16年から日本代表強化指定選手。リクルート所属、リクルートオフィスサポート勤務。