リオデジャネイロ五輪の男子団体総合金メダルメンバー、白井健三(23)も貴重な調整の機会を奪われた1人。3月18日に参戦予定だった「KOHEI UCHIMURA CUP」が中止になり、現時点で4月の全日本個人総合まで大会はない。世界舞台から遠ざかる知名度抜群の「ひねり王子」に、2大会連続のオリンピック出場の芽はあるのか。
先月この世を去ったプロ野球界の巨星、野村克也氏の言葉にこうある。
「やけくそは無策。開き直りは、やることはやったから『人事を尽くして天命を待つ』こと」。
やけくそと、開き直り。窮地に追い込まれた際に取る動きで、結果から振り返れば容易に峻別できそうな2つの言葉だが、時に大胆とも取れる采配をふるってきた名将の一言は核心を突く。実際に追い込まれ、結果が出る前に、それがやけくそか開き直りかを冷静に捉えられる俯瞰的視座を持ち合わすことは、当事者にはなかなか難しいだろう。
昨年末の愛知県豊田市、豊田国際体操競技大会にオープン参加で演技した後に語られた白井の言葉には、前者の匂いを感じ取った。
「一番良かった時の自分は技が入っていた時の自分。いろんな技をやめて、点数を取りにいくのは面白みがない、違うなと。自分がやりたい、点数もついてくる。ちゃんと動ければ点数もついてくる。採点の傾向とかを自分に合わせるのではなく、良い時に戻して点が出るか考えればいい」。
表情は晴れやかで、言葉も滑らか。迷いを抜けた先の覚悟と肯定的に捉えることはできるが、どこか無謀さも感じさせた。なぜか。少し白井の近況を振り返ってみたい。
■ルール改正の影響
16年リオデジャネイロ五輪が終わり、真っ先に白井が目指したのはオールラウンダー、6種目を競技できる選手への進化だった。高校生時代に床運動のスペシャリストとして世界を席巻。13年世界選手権の床運動では17歳1カ月の史上最年少で金メダリストとなった。真似できないひねりの技術、回転数に「ひねり王子」として勇名をはせた。その勢いのままに臨んだブラジルでの初めてのオリンピックでは床運動は4位に終わったものの、跳馬で銅メダルを獲得した。そして東京の舞台を目指して取り組んだのがスペシャリストからの脱却だった。17年の世界選手権では6種目で争う個人総合に出場し銅メダルを手にした。順風満帆な成長曲線で母国のオリンピックでは金メダル候補として主役になる期待も高まったが、その流れを挫いたのはルール改正だった。
リオ後から国際連盟が採点について厳格化を推し進めた。特に白井に影響があったのは技の出来栄えを評価するEスコア。つま先まで伸びているか、着地の際にしっかりした準備姿勢を取れているか、足が並行に降りているかなど、ルールの基本に忠実な演技を評価する方針がとられた。この流れは技の難度を示すDスコアで、例えば床運動なら白井のような以前では想像できない回転数で演技を成立させる選手の出現があったことに付随する。16年まではより難度の高い技を仕掛ければ多少の乱れは目をつぶられる状況にあったが、これが許されなくなった。難しい技を仕掛けても、競技規則の減点事項に該当するならばその都度当たり前に減点される。この現実が白井に重くのしかかった。
床運動での跳躍技の連続写真を見れば一目瞭然なのだが、ひねる際に両脚がそろって足先まで真っすぐ伸ばしきれておらず、交差したりぶれている形になっていることが分かる。これがまず減点対象で0・10~0・30点が引かれる。そして着地においても足がずれているなどの減点が、その都度重なる。跳べば跳ぶほど減点が大きくなるというのが、いまの採点傾向における白井の床運動の常になっている。
本人は昨春、世界選手権選考会の全日本選手権で最下位30位となった後に怒りをぶちまけた。
「うまくいったところでEスコアが出なかった心残りが大きい。意味がわからないですね、床があの点になる意味が。自分で分かってないですし、いろんな先生方にもっと話を聞かないと。体操人生で一番着地が止まった床だと思ったんですよ。だけど(Eスコアが)8・2しかでない。何なのかを知らないと。いまは何を直したいかが分からないので。止めろと言われたから止めたのに、同じ点しかでないという、そういう疑問が残っている中で演技したくないので、『引くなら引けよ』と思います」。
Eスコアを採点する審判の判断への憤りを隠さない口ぶりは苛烈だった。脚の交差、着地の乱れなどは審判からの説明を聞けば、競技規則に則った世界的な採点傾向に倣ったまでとすぐに分かるはずが、過剰な批判にも映った。審判の中にはその批判を聞き、首をかしげる人もいた。
結局、その後の故障の影響などもあり、春の戦いは6月の全日本種目別選手権で最後となり、6年続けていた世界選手権代表入りも逃した。そして半年ぶりの試合となったのが冒頭に書いた豊田国際だった。練習で基礎から見つめ直したという演技の成果はいかに。大会初日、白井の床運動に注目が集まった。
■「やけくそ」か「開き直り」か
冒頭、H難度の「シライ3(後方伸身2回宙返り3回ひねり)」を決めた。シーズン初の1本。その後も「シライ2(前方伸身宙返り3回ひねり)」などひねり技を次々と繰り出していく。演技を終えると笑顔でガッツポーズ。そして、得点を待った。果たしてEスコアは…。通常よりかなり長い審判団の得点の確認時間が過ぎる。昨春にはその減点の仕方に疑問符を突きつけられた側だけに、半年ぶりの演技に慎重な作業が行われたのだろうか。
得点板に表示された点数は「14.500」。Dスコアが「6.9」、そしてEスコアは「7.6」。15点越えが当たり前だった白井にとって、難しい技を解禁しての点数としては低い。やはりひねり不足などを厳密に取られたEスコアの低迷という状況は、半年たった試合でも変わらなかった。確かにこの日の床運動の跳躍でも、ひねりの数は増したが、脚が交差したり乱れたりする場面は減っていなかった。そして、その点数を受けた上での発言が冒頭の言葉になる。
「採点の傾向とかを自分に合わせるのではなく、良い時に戻して点が出るか考えればいい」
おそらく幼少期から染みついたひねり方の癖は、容易に変えられるものではないという結論にいたったのではないか。とにかくひねり続けてきた体の使い方は、脚を閉じて真っすぐにすることを許さない。そこにフォーカスし過ぎて大技に制約がかかるならば、減点覚悟で跳ぶしかない。
ここで再びやけくそか、開き直りかを考えると…。豊田での演技のEスコアを見た直後、そこには憤りもなく、どちらかという諦念を感じさせる表情をしていた。「やることはやる」という決断は前向きかもしれないが、体操は野球とは違って採点競技であり、確固たる規則がある。野球のように不確定要素が入り込み、それが窮地を打開してくれるようなシチュエーションはない。足の乱れはどこまでいっても、どの大会でも足の乱れとして減点される。「採点の傾向に合わせない」という判断は、こと体操においては致命傷になりかねない。だからこそ、その決断に「やけくそ」の印象を受けてしまう。
果たして、それが2つの言葉のどちらだったのかを示すのは結果だ。4月から始まる東京オリンピックの選考会。そこでどんな演技を披露し、どんな決断の結末を迎えるのか。