8月8日、大阪府内の清風高。近代的な校舎の6階に設けられた体操競技専用の練習場で、北園の姿を探すのに時間がかかった。コロナ禍の状況を考慮し、報道陣はなるべく選手に近づかず、遠巻きに眺める環境もあったとはいえ、これまでの印象に適合する姿がない。炭酸マグネシウムで少し視界が白く煙る30㍍ほど先の鉄棒、上半身裸で短髪の高校生の集団の中から、ようやく「らしき姿」を見つけたが、カメラの望遠レンズを手で回してズームインし、ようやく確信が持てたほど。

「なんか大人になりましたか?」

久々に会った知己の取材者からの、この日の定番フレーズだったらしい。

「ほんとっすか!気付いてないんですけど、そんなんかなあ」

 4月から高校3年生。大人の階段を二段飛ばしで上がる最中に、大人からの指摘には少しの照れと喜びが混じる。「でもキャプテンやってるからかな。周りが見えてきた。視野が広がってるのかな」。自己分析では精神面に答えを求めたが、肉体面でも変化あり。自粛期間中の2カ月弱、自宅でのトレーニングを続けていた期間で、身長が「1㌢ちょい」も伸びたらしい。「まだまだ伸びてます。いま155㌢なんですけど、158㌢位はいくかなと」。明るい未来像に、再び喜びの笑みがこぼれた。

 これまでは、〝ぶれない視野〟こそが競技人生に結果をもたらし続けてきた。東京でのオリンピック開催が決まったのは小学校5年生の時で、すぐに「東京で金メダル」という目標を掲げ、今も持ち続けている。「僕も別に誰かに言われたからではなく、勝手にそうなっていた」と自発的で、「体操は五輪に出場して金メダルを取るものだと。体操は体を動かすだけでなく、試合に出て優勝するということにこだわりだしたのが小4だったので」とよどみない。ありがちな「小学校の卒業アルバム」での宣言には地続きではない「夢」の要素が色濃いが、小5の北園にとっては金メダルは道の先にあった。シニアに本格参戦した昨年はNHK杯21位など結果は残せなかったが、視線は下がることはない。本番は1年延期にはなったが、「東京五輪はなくなったわけじゃない。そこの目標はずっとあって、そこを見据えてやっていく」といまも公言は続く。

 そのための決断が、来年4月からの徳洲会入りだった。
「体操を続けていく上で、一番、体操に専念できる。体操以外の面でも食事なども整っている。一番強くなるのに最高の環境だと思いました」

 体操界では高卒での社会人チーム行きは異例の選択だが、最短ルートと判断した。清風高の先輩であるアテネ五輪金メダリストの米田功監督とは北園が中学時代から親交があり、何度も大阪から横浜の徳洲会の練習場へ通っていた。大学に入れば学業に追われる毎日も待つ。小5の誓いを全うするためには、体操に没頭できる環境が必要だった。高校を卒業後もオリンピックまでは清風高を拠点にする、変わらない生活を続ける。

内村からの助言

 本人は1年延期された影響を最小限に抑えるが、周囲の目は少し変わるかも知れない。6月、ロンドン、リオデジャネイロとオリンピックの個人総合を連覇し、リオでは団体金メダルに導いた内村が、今後は種目別の鉄棒に種目を絞ると発表した。本来なら、次世代の選手は内村と共に団体メンバーの代表争いを繰り広げ、「ポスト」という着眼点で注目されるのは、東京五輪以後のはずだった。それがオリンピックを待たずに、後継者を巡るレースがスタートすることになった。

「最初はびっくりしましたけど、でも、鉄棒だけに絞ってもいままでやってきた成績、やってきたことはすごいので、それはちょっと悲しいですけど、でも、鉄棒でも全然五輪金メダルを取れると思うし、すごいなという感じがあります」

 内村の美しさに最初に触れたのは2010年の世界選手権だった。テレビ越しに、他の誰とも似ない独特の美しさに目を奪われた。

「僕は、見る人、体操を初めて見る人でも、なんかすごい、何しているかわからんけど、とりあえず格好いいなと思ってもらえるのが美しい体操、魅力のある体操だと思ってます。知らない人が見ても『この人だけ違う』と。それがあこがれ。もう内村選手がそれでしたね。同じ技でも内村さんは別格の技のさばき方。そういうところに惹かれてました」

 中2の時の助言は、今でも忘れない。ジュニアの日本代表として初めて一緒の合宿機会を得た時のこと。「僕が鉄棒の練習をしていて、内村さんは終わってて、僕がやってるのをみて教えに来てくれたという感じです」と振り返る声が弾む。D難度の「アドラーひねり」に取り組む姿を見て、声をかけてくれた。教えるその言葉も独特だった。

「鮮明に覚えてます。『ズボンを履きにいく感じ』と。上に肘を引く動作があるんですけど、そこでズボンを上げるようなイメージで、と。そんなこといままで考えたことないようなことを教えてもらって。そこからだいぶ分かったなという感じです」

 内村には何げない心配りだったのかもしれない。ただ、直に触れた超一流の思考回路がもたらした指針は、ぶれなかった目標に一層の覚悟ももたらした。「あんな風になりたい」と。

 1年後、一緒に戦うことはかなわない。だからこそ、最大の敬意を込めて言う。
「チャンスだと思っている。1つ枠が空いたのも事実なので。内村選手の代わりにもなれるように、より一層頑張らないと。日本団体メンバーに内村さんがいない中で勝つ。去年(の世界選手権)はいなかったメンバーで、あともうちょっとだった(銅メダル)。次はあの中でに僕が入って優勝したい」

 8日の公開練習では跳馬でG難度の大技「ロペス」を操る様を披露した。6種目の技の難度を示すD得点でも、世界のトップレベルと同等まで引き上げていくプランを持つ。4人の団体メンバー(個人総合はその中から選出)をかけた国内選考会は来春にかけて行われる。

 1年の延期により、19歳で東京オリンピックを迎えることになった。くしくも内村が初五輪を迎えたのも、19歳の北京大会。個人総合で銀メダリストになった。
「小さくて、北京の事は覚えてないですけど…。そうですね、同じですね」

 その先が聞きたくて、誘うように聞いてみた。
「よりインパクトを与えるには?うん、僕が金メダルを取れるように頑張りたいですね」

 小学生のころから言い続けてきた宣言は、少しの照れも遠慮も感じさせず、この時も真っすぐに響いていた。


阿部健吾

1981年、東京生まれ。08年に日刊スポーツ新聞社入社。五輪は14年ソチ、16年リオデジャネイロ、21年東京、22年北京を現地で取材。現在はフィギュアスケート、柔道、体操などを担当。ツイッター:@KengoAbe_nikkan