桑田コーチが現役を引退したのは2008年。若い世代には、Mattの父親として認識されているかもしれないが、選手時代は強烈なカリスマ性がある投手だった。

1985年のドラフト1位でジャイアンツに入団すると、抜群のコントロールと投球術を武器に高卒1年目から1軍デビュー。2年目には15勝を挙げて最優秀防御率のタイトルを獲得して沢村賞に輝き、翌年には球団史上最年少となる20歳0か月で開幕投手を務めた。

その後も斎藤雅樹氏、槙原寛己氏と共に“三本柱”としてジャイアンツの投手陣を引っ張り、勝利した方が優勝となる1994年の10.8決戦では2人の後を受けて登板。最後を締めて見事胴上げ投手になった際、最後の打者を大きなカーブで三振に仕留め、クルッと回ってのガッツポーズは多くのファンの脳裏に刻まれているはずだ。

その後、右肘を負傷してトミー・ジョン手術を受ける(復帰登板でプレートに右肘をつけた儀式も名シーン)などしたが、最優秀防御率2回、最多奪三振1回、最高勝率1回のタイトルを獲得。1994年にはMVPにも選ばれ、21年間のジャイアンツ在籍で通算173勝を挙げている。

プロ入り前は清原和博氏とのKKコンビで甲子園を席巻し、戦後最多の甲子園通算20勝を記録。ジャイアンツ退団後の2007年にはピッツバーグ・パイレーツでメジャーのマウンドにも登っている。

2008年の現役引退後は解説者や評論家を務め、現役時から定評のあった野球理論を披露するかたわら、2009年には早稲田大学大学院スポーツ科学研究科に合格し、首席で修了。修士論文「野球道の再定義による日本野球界のさらなる発展策に関する研究」は最優秀論文賞に加え、学術的に価値の高いものに送られる濱野賞を受賞した。

2013年~2014年の2年間は、東京大学の硬式野球部で特別コーチを務め、2016年には息子の真樹さんが所属したBCリーグ信濃グランセローズで臨時コーチに就任。NPB他球団からのオファーはあったとされるが、かつて「ジャイアンツでユニフォームを着られるのがベスト」と語っていた通り、これまでプロ野球のユニフォームを着ることはなかった。

球界きっての理論派

FA&新外国人など大型補強を敢行した2021年シーズンへ向け、“最大の補強”とも評価される桑田さんのコーチ就任。

プロ野球選手としては決して大きくない体格ながら、自分の頭で考えて行動することによって第一線で活躍し続けてきた球界きっての理論派は、就任会見で「実際の感覚とイメージに科学的根拠を添えて指導していきたい」と指針を披露した。

「野球を学問する」(新潮社・共著)、「心の野球 超効率的努力のススメ」(幻冬舎)などの著書では“量より質”の練習を提唱。東大野球部では技術指導に加え、“考える野球”を東大ナインに植え付けた。短いコーチ就任期間では結果が出なかったものの、指導した宮台康平投手(現東京ヤクルトスワローズ)らが育った2016年の野球部は年間4勝を挙げ、宮台投手も大学日本代表に選ばれるまでに成長している。

2014年に進んだ東大大学院総合文化研究科では、ピッチングの動作解析などを学んだ桑田さん。モチベーターとしての評価が高い宮本和知一軍投手チーフコーチを、最新のトレーニング知識をもつ理論派の桑田コーチが補佐することで、戸郷翔征選手ら若手の多い先発陣が飛躍することを大いに期待したい。

その一方で、常々“野球を楽しむ”ことの大切さを訴え続けてきたカリスマ。古巣が日本シリーズで苦汁をなめた際のTV番組では、「ソフトバンクの選手は、楽しく自分で考えてプレーしていた」と解説。指示待ちのプレーで野球を楽しめていなかった古巣との違いを分析していた。

後日、宮本コーチが語っていたように、前年に4連敗を喫した相手との再戦とあって、“絶対に勝つ”“勝たなきゃいけない”と、意気込み過ぎていた感があった日本シリーズ。

もちろんプロとして勝つことは重要だが、その前に野球を楽しむことも必要だったのでは? 桑田コーチが、そのスポーツ本来のあり方を今一度伝えてくれることに期待したい。

その先に、悲願の日本一が待っているのではないだろうか?


越智龍二

1970年、愛媛県生まれ。なぜか編集プロダクションへ就職したことで文字を書き始める。情報誌を中心にあらゆるジャンルの文字を書いて25年を超えた。会ったら緊張で喋れない自分が目に浮かぶが、原監督にインタビューするのが夢。