インタビューに答える早野レースディレクター

世界記録保持者、エリウド・キプチョゲの招聘に成功

 当初2021年3月に予定されていた東京マラソン2021は、コロナ禍の状況から2度の延期を経て、2022年3月6日に開催されることになった。今大会には男女のマラソン世界記録保持者が来日したが、どんな思いがあったのだろうか。

「東京マラソンは第1回大会(2007年)の優勝タイムが2時間9分45秒でした。当時の国内最高記録は福岡国際の2時間5分台で、ワールドマラソンメジャーズに入るためにはエリートレースを充実させないといけないと思っていたんです」と早野RD。東京マラソンは2013大会からボストン、ロンドン、ベルリン、シカゴ、ニューヨークシティが加盟するワールドマラソンメジャーズ(現アボット・ワールドマラソンメジャーズ)に加入すると、その後も世界トップ選手へのアタックを続けた。

「世界トップ選手を呼ぶにはお金がかかるんですけど、マーケティングをきっちりやって、先進投資としていい選手を呼ぶ。そしてグローバルスタンダードのレースを見せたい、と思っていたんです」

 そして男子マラソンの世界記録保持者で五輪を連覇したエリウド・キプチョゲ(ケニア)の招聘に成功する。

「5年がかりくらいでようやく実現しました。キプチョゲ選手は『シックスメジャーズをすべて制覇したい』という思いを持っているので、東京五輪が終わったタイミングで、次のレースは東京マラソンだと本人のなかにあったようです。ただ大会を開催できるのか。最後の最後まで私たちももがきながらやっていたんです」

 早野RDはキプチョゲのエージェントから「(開催は)大丈夫?」と何度も聞かれたという。コロナ禍のなかでスポーツ界は海外選手が来日できない状況が続いていただけに、その心労は計り知れない。外国選手の入国許可手続きが進み、大会が開催されることになると、今度はレースのディレクションに神経を注ぐことになる。

男女ともに大会記録&日本国内最高記録を更新したレースの裏側

「キプチョゲサイドには当初、ハーフを1時間1分20秒ぐらいで通過するイメージを伝えていました。倍にすると2時間2分40秒なので、2時間2分台を狙える。最低でもコースレコード(2時間3分58秒)は切ってほしいなと考えていたんです」

 レース前日のテクニカルミーティングで第1集団は2時間2分22秒ペースのキロ2分54秒、第2集団は2時間4分29秒ペースのキロ2分57秒というタイム設定になった。ただし、これはあくまでも目安のタイム。当日の気象状況、ランナーの表情や動きを見て、早野RDは黄色いメガホンでペースメーカーに指示を出している。

「東京マラソンは序盤が下り勾配なので、ペースが少し速くなっても、フォームが無理なく綺麗に流れていたら、ペースを落とすようには指示していません。そういう細かいところも有力選手のエージェントとは確認しています。また誤解している方もいらっしゃいますが、ペースメーカーは特定の選手の助力はできないんですよ。例えば、ある選手が苦しくなったからといって、ペースメーカーが勝手にペースを落とすのは許されません。給水を選手に手渡すことも禁止しています。彼らはレース側のスタッフなので、私の指示に従ってもらいます。一方、選手はペースメーカーの前を走ってもいいんです」

 東京マラソン2021ではキプチョゲが26km過ぎにペースメーカーの前に出ると、〝本気の走り〟を見せる。その気迫に早野RDも心を揺さぶられたという。

「キプチョゲ選手の気合が入ったレースを間近でコンダクトできたのは誇りに思うし、すごい体験でした。彼は真剣に世界記録を狙いに行った。残念ながら品川を折り返した後は向かい風でペースが落ちましたけど、それでも2分台ですからね。一般の方からもキプチョゲ選手の走りを見て感動したという話を随分聞きましたし、彼の本気の姿を見られたのは本当に良かったです」

 男子世界記録保持者のキプチョゲは大会記録&日本国内最高記録(2時間3分58秒)を大きく塗り替える2時間2分40秒をマーク。女子世界記録保持者のブリジット・コスゲイ(ケニア)も大会記録&日本国内最高記録となる2時間16分02秒で優勝した。

 早野RDは6~7年前から「グローバルスタンダードのレースをします」と言い続けてきたが、今年のレースは世界に誇るものになったことだろう。

 一方、日本勢は世界記録保持者から大きく引き離された。男子の鈴木健吾(富士通)はパフォーマンス日本歴代2位の2時間5分28秒で4位に食い込むも、キプチョゲとは約3分差。女子の一山麻緒(ワコール/現・資生堂)は2時間21分02秒の6位。コスゲイとは5分差がついた。「日本人が勝たないと面白くない」という声もあるが、早野RDは〝グローバルスタンダード〟にこだわってきたという。

「日本人のための大会ではなく、世界トップのレースを東京で見せたい。その思いでやってきました。今年は特別な速さだったんですけど、そこに日本人選手がつけないのが現実ですし、それが現在のグローバルスタンダードだと私は思っています。そのなかで調子が良くないと聞いていた鈴木選手はフィニッシュ後、『トップ集団に全然ついていけなかったことが悔しいんです』と言って涙していたんですよ。5分台で日本人トップになっても、そういう言葉が出てきた。日本人選手がもうひとつ上のステージを目指すんだという気概が生まれたのが私は一番うれしかったですね」

 グローバルスタンダードを貫く東京マラソンに日本人選手が本気で挑むことで、世界との差は確実に縮まっていくだろう。

徹底されたコロナ対策でスポーツイベントの成功例に

 東京マラソン2021は3年ぶりに一般ランナーが参加した。これも大きな〝決断〟だった。「もう一度、東京がひとつになる日。」をテーマに掲げて、徹底的に対策を講じてきた。出走者は事前に配布されたPCR検査キットの検体を提出することでアスリートビブス(ナンバーカード)と交換する方式を採用。重症化リスクの高い65歳以上のランナーには来年以降の出場権を認める代わりに、参加自粛を呼びかけた。もちろん、大会当日はスタートエリア入場前の検温等も実施された。

©東京マラソン財団

 従来よりも厳しい参加条件になったが、出場権を持つ約2万5000人のうち1万9188人がスタートラインに並んだ。ロッカーや手荷物の預かり場所は設けず、出場者は基本、走る格好で来場。感染症対策を考慮して、給食も個包装で提供する各自で準備するかたちをとった。スタートは3グループが10~15分おきに走り出すウェーブスタート方式が採用され、スタートライン付近までマスクを着用。給水は手を消毒してから受け取るなどの感染症対策も実施された。

 これまでの大会と比べると、ランナーたちは窮屈な思いをしただろう。しかし、2万人ものフィニッシュシーンはすべてを吹き飛ばすだけの感動とエネルギーに満ちていた。

「我々としては安全面を確保するために、できることはすべてやりました。お金の面を含めて、ハードルはものすごく高く、本当にチャレンジでした。ここでやらなかったら他の大会にも影響があったと思います。ランナー、スタッフ、ボランティア、沿道の方々。大会に関わった全員が高いハードルを超えて取り組んでくれたことを誇りに思いますね」

 東京都で「まん延防止等重点措置」がとられていた状況でも、大きな混乱もなく無事に大会が終了した。キプチョゲの神がかった快走、鈴木健吾の涙、そして約2万人のドラマ。ランナーにとってはコロナ禍における〝暗黒の時代〟が続いていたが、東京マラソン2021が〝希望の光〟になった。


酒井政人

元箱根駅伝ランナーのスポーツライター。国内外の陸上競技・ランニングを幅広く執筆中。著書に『箱根駅伝ノート』『新・箱根駅伝 5区短縮で変わる勢力図』『東京五輪マラソンで日本がメダルを取るために必要なこと』など。