東京マラソンの意義と始まった背景

宇賀 現在、東京マラソンは世界的にも注目される大会になっていますが、開催に至るまでの経緯と背景を教えていただけますか?

早野 東京マラソンの新設に向けては、2002年ぐらいから動いていたそうです。当時の石原慎太郎都知事が、ロンドンやニューヨークのように一般の方も参加できる都市型マラソンをやりたい、と。そして2005年の秋頃に日本陸連と東京都を軸に組織委員会が立ち上がり、2007年に第1回大会が開催されました。

2007年、第1回大会のフィニッシュシーン©東京マラソン財団

宇賀 それまで日本に都市型マラソンはなかったんですか?

早野 男子でいえば福岡国際、東京国際、びわ湖毎日がテレビで放映されていましたが、参加基準が高く数百人規模のレースでした。参加者1万人を超えるようなレースは国内にほとんどなかったんです。しかも、ニューヨークシティマラソンのように大都会を駆け抜けて、街全体が盛り上がるような大会は日本にありませんでした。

宇賀 地方ではなく東京の街中でやることに意義があったわけですね。ただ、これだけの参加人数を誇り、さらに都内の主要道路を封鎖して開催するとなると、実現に向けて多くのご苦労があったはずです。

早野 おっしゃる通りで、最初は雲を掴むような感覚だったと思いますよ。いきなり3万人規模の大会をやるわけですから。お金もかかりますからスポンサーを集める必要がありますし、ボランティアもいる。もうカオス(混沌)のなかで始まったというのが正直なところです。

宇賀 そのなかでも何が一番大変だったんでしょうか?

早野 やっぱり沿道調整でしょうね。東京の街を止めることで、ビジネスに影響しますから。42.195㎞もあるコース周辺にご協力いただかないといけません。町内会や商店街の方々にもご挨拶をして、お願いにあたりました。当初は反対意見が多く、時間がかかりましたね。

宇賀 第1回大会と、これだけ重ねてきてからでは沿道周辺の理解も違いますか?

早野 最初は「商売どうしてくれるんだ」みたいなことをよく言われました。でも、「年に一回ぐらいはこういうお祭りがあってもいいよね」という話が出てきて、徐々に雰囲気が変わってきたんです。コースを2017年にリニューアルしたんですけど、そのときは逆に「盛り上がるから、ここを通ってください」という署名運動もあったくらいです(笑)。

宇賀 走る方だけじゃなくて、周りにいる方も東京マラソンに関わって、お祭りのような気持ちになっていらっしゃるんですね。なぜこれだけ多くの人が熱中するのか。東京マラソンの人気の源はどのような部分とお考えでしょうか?

早野 東京マラソンは、「走る喜び」「支える誇り」「応援する楽しみ」など、いろんな参加の仕方があるんです。東京という街の魅力もありますし、ホスピタリティ、グローバル化、チャリティ、ワールドスタンダードのレースなど様々な側面を持ち、参加する一人ひとりが「主役」になれる大会だからだと思います。

目指したのはグローバルスタンダード

宇賀 2017年にコースを変更されたそうですが、どんな理由があったのでしょうか?

早野 アボット・ワールドマラソンメジャーズは東京が加わるまで、ボストン、ロンドン、シカゴ、ベルリン、ニューヨークシティの世界5大マラソンだったんです。そのレースディレクターからいろいろなご指摘を受けました。なかでも問題視されたのが、エリートのレベルが低かったことです。

宇賀 アボット・ワールドマラソンメジャーズに入るには基準を満たす必要があるんですね。

早野 東京マラソン男子の優勝タイムは第1回大会が2時間09分45秒で、第6回大会(15年)までの大会記録が2時間07分23秒(日本人最高記録が2時間07分48秒)。2013年からメジャーズに加わり、2017年の第11回大会にコースをリニューアルしたんです。それまではビッグサイトがフィニッシュで、36㎞付近には佃大橋がありました。その上りがきつく、終盤は風が強いことも多かったんです。そして沿道の応援も少なかった。現在のコースは終盤の起伏がなくなり、フォトジェニックな東京駅前がフィニッシュですから、ずいぶん違うと思います。また沿道からの声援が途切れないことも高い評価をいただいています。

フィニッシュが東京駅前に変更。2024大会ではコースレコードも更新。©東京マラソン財団

宇賀 本当にこだわって作ってらっしゃるのがわかりますね。そして選手のタイムも上がったんですか?

早野 男子の大会記録は2時間02分16秒。これは世界的にもかなり上位です。そして日本人のレベルも上がってきました。当初は2時間7~11分台で日本人トップでしたけど、日本記録を2度も更新しましたし、近年は2時間5~6分台が当たり前のように出ています。また車いすに関しても路面のスムーズさはとても評価を得ています。

宇賀 世界トップレベルを肌で感じることができるんですね。

早野 我々が目指してきたのは「グローバルスタンダード」のレースです。日本人も五輪や世界陸上ではレベルの高いところで戦わないといけません。国内で海外の大会をやるイメージで取り組んでいます。

宇賀 東京マラソンは世界トップレベルの大会として評価されていますが、海外のスター選手をどのように招聘されているのでしょうか?

早野 招待選手を集めるのがレースディレクターの大きな仕事です。ロンドンマラソン、ベルリマラソンなどに行き、トップ選手を抱えるエージェントと交渉するんです。国内では五輪選考会となる年もあります。毎年、大会のストーリーを描いて、それに合うキャストを集める。テレビ番組を作るのに近いかもしれません。

宇賀 当初は選手から断れることもあったんですか?

早野 もちろんありましたよ。選手はプロですからね。東京マラソンは賞金がありますが、アピアランスマネー(出場料)の交渉をします。エージェントと食事をするなど、信頼関係を構築してきました。
 
宇賀 何より選手本人が「走りたい」と思う大会じゃないと来てくれないですよね。

早野 選手はプロですから、基本的には金銭面が大きいですけど、「東京に行ってみたい」とか「東京の街が好き」という理由で来てくれる選手もいるんですよ。

宇賀 海外ランナーにとっては、「走りやすい」だけじゃなくて、「東京の街が好き」というのも魅力なわけですね。

早野 東京マラソンでいうと、日本人の特有のきめ細かいサービス、ホスピタリティが海外の方にすごく評価されています。ご存知の通り、日本はインバウンドが凄いじゃないですか。東京マラソンも海外からの参加者が多いんです。2025大会は約3万8000人のうち約1万8000人が外国人でした。

宇賀 それは東京に住んでいる方にも刺激になります。

早野 東京マラソン2024では「TOKYO, My favorite place...」というメッセージを掲げました。そこに込められた思いは、「一人ひとりの多様性を大切に、世界のどこよりもTOKYOを『私のお気に入りの場所(My Favorite Place)』と心に描いてもらうために、世界一あたたかな大会を目指す」というものです。わざと「...」をつけたんです。一人ひとりの思いは違いますから。東京という都市の魅力と、日本文化を感じられる大会になっていると思います。そして何より経済効果が凄いんですよ。

2024大会コンセプト「TOKYO, My favorite place...」

経済波及効果は787憶円以上

宇賀 東京マラソンがもたらす経済効果について、具体的なデータや影響を交えてお聞かせください。

早野 東京マラソン2025の経済波及効果は全国規模で787億2600万円の効果をもたらしたと算出いただいております。海外からの参加者が1万7100人いらして、その多くが東京だけでなく、日本中を観光していることが大きな経済効果につながっていると考えています。東京都に限定しても、562億 3200万円という経済波及効果で、税収効果は東京都で 65億円です。東京マラソンの事業費予算の13.5倍ですから、経済にも効率的な刺激になっていると思います。

宇賀 海外からの参加者数は年々増加していますが、東京の魅力以外にも、何か影響しているものはあるんでしょうか?

早野 アボット・ワールドマラソンメジャーズに加わったことで、海外からの注目度が上がりました。すべての大会を走った人にはシックススターメダルが贈られるんですけど、5大会を完走した方は、東京も走りたくなる。それで多くのランナーが流入してきたんです。SNSを見ると、胸にシックススターメダルをぶらさげて京都の二条城を訪れている方もいるんですよ。

世界6大マラソンを制覇した証、Six Star Finisherメダル

宇賀 シックススターメダルが欲しくて応募数が増えるわけですね。ちょっと気になったのがメダルの絵柄です。他国はタワーが多いですけど、東京は街並みですね。

早野 本当だ(笑)。シックスメジャーと言っていましたが、今年からシドニーマラソンが加わり、セブンメジャーズになるんです。

宇賀 少しずつ変えながら、調整しながら、アボット・ワールドマラソンメジャーズは発展してきたんですね。東京マラソンというと、「抽選が当たらない」と言っている人がたくさんいるイメージです。

早野 申し訳ありません。当初はフルマラソンの定員が3万人で、現在は3万8000人です。定員を少しずつ増やしてきたんですけど、応募数も増えました。2019大会の一般募集は抽選倍率が約12.1倍でした。コロナ後は落ち込みましたが、回復基調にあります。そして微妙なお話なんですけど、グローバルスタンダードのレースを国内でやってきましたが、小池百合子都知事からは、「外国人ランナーが多すぎて、都民が走れなくなっちゃった」と言われています(笑)。

宇賀 何事も振り子ですからね。後半のインタビューでは東京マラソンがもたらしたチャリティ文化とボランティア活動、それから今後の展望についてお聞きいたします。


酒井政人

元箱根駅伝ランナーのスポーツライター。国内外の陸上競技・ランニングを幅広く執筆中。著書に『箱根駅伝ノート』『新・箱根駅伝 5区短縮で変わる勢力図』『東京五輪マラソンで日本がメダルを取るために必要なこと』など。