吉田は鹿児島県鹿児島市出身。20歳で格闘技を習うためにハワイへ。帰国後、総合格闘技やキックボクシングを経て、ボクシングに転向したのが26歳だった。日本、OPBF(東洋太平洋ボクシング連盟)のタイトルを獲得した吉田は2019年6月にケーシー・モートン(アメリカ)と空位のWBO(世界ボクシング機構)スーパーフライ級王座を争う。モートンを3−0判定で破り、初めて世界のベルトを腰に巻いた。「戦うシングルマザー」として話題になった。

覚悟と決意

 同タイトルは奥田朋子(ミツキ)に敗れて一度失ったが、直接再戦で奪回。しかし2度目の王位も長くは続かず、初防衛戦で小澤瑶生(フュチュール)に判定負けを喫した。

 この時34歳、その後の吉田の活躍を予想した者がどれだけいただろうか。元チャンピオンは日本を離れ、渡米してボクサー活動を続けることを決意する。「もう時間もない。最後は好きにやりたいと思った」。海外の舞台で戦いたい、これは吉田がかねて抱いていた思いだった。

 小澤戦が5月30日のこと、6月に一度ハワイへ行き、7月に再び渡米しニューヨークでベテラン・プロモーターのルゥ・ディベラと接触したのだから行動的だ。

 当初は試合が決まれば日本からアメリカへ出かけるスタイルをとるつもりだったが、娘(実衣菜ちゃん)とニューヨークに移住してボクシングに懸けるというのが契約の条件だった。実衣菜ちゃんはママと一緒に行くと言ってくれた。

 2022年11月、JBC(日本ボクシングコミッション)で吉田の会見が行われた。日本で所属していた三迫ジムとの契約を終了し、今後はアメリカでボクシングを続けることを発表した。翌月母娘はニューヨークへ向かった。

 アメリカでの活動は順風満帆だったわけではない。2023年11月の渡米2戦目ではシュレッタ・メトカーフ(アメリカ)に黒星をなすりつけられた。しかし落ち込んでばかりもいられず、すぐさま吉田は練習環境を試行錯誤し、メキシカンスタイルを一から学びだし、次のチャンスに備えることにした。

 そのときは意外に早く訪れた。メトカーフ戦の1ヵ月後だ。サンフランシスコでIBF(国際ボクシング連盟)バンタム級チャンピオン、エバニー・ブリッジス(オーストラリア)にチャレンジする話が舞い込んだ。試合まで3週間となっていたが、吉田に断る理由はなかった。そして本番で吉田は突進型のブリッジスを相手に堂々としたファイトを見せ、3−0判定で快勝した。

 吉田はアメリカで日本の女子選手が世界タイトルを獲得した最初の例となった。しかも2階級制覇も達成した。実衣菜ちゃんを抱き寄せて涙した吉田。ブリッジスは「今夜は彼女のほうがいいファイターで、美しく謙虚なシングルマザーでした。勝利が彼女と彼女の娘に何を意味したか、私をある種温かい気持ちにしてくれました」と祝福した。まさにアメリカンドリームだ。

 この世界タイトルはいま、吉田のもとにない。2024年10月の初防衛戦で因縁の相手メトカーフにまたしても判定負けし失った。吉田の勝ちを支持する意見も数多い、微妙な採点結果ではあった。さる2月、再起戦に勝利した吉田は4度目の世界王座奪取を見据えている。判定をめぐるIBFへの提訴が認められメトカーフとの第3戦が行われる線だが、メトカーフが先にWBO&WBC(世界ボクシング評議会)王者のディナ・ソルスランド(デンマーク)と統一戦を行う予定で、その勝者に吉田が挑むかたちになりそうだという。首尾よく事が運べば、世界奪還をかけて吉田は3団体王者と対戦することになる。来る日に向けて「戦うシングルマザー」はトレーニングに励む。

多忙な日々で培った自己形成

 吉田のマンハッタンでの平均的な一日は、朝6時半に始まる。実衣菜ちゃんを学校に送ると、自宅で日本のラジオ番組や執筆の仕事、打ち合わせをこなしてから弁当持参でジムへ。以前はブルックリンまで片道1時間半かけて電車で通っていたが、現在は練習拠点を自宅から3駅のジムに移している。ここで11時から3時間のジムワーク。

 ジムワークの後はパーソナルレッスンが入ることもあるが、自身のフィジカルトレーニング、ムエタイ、柔術などの練習を行う。

 17時半、実衣菜ちゃんをアフタースクールに迎えに行く。アメリカでは12歳以下の子どもを一人にしてはいけないので送迎は大切な役目だという。18時に帰宅し、母娘の時間。そして22時に就寝する。「日本にいた頃は朝が大の苦手でしたが、いまは克服しました」と吉田は言う。渡米してから「アーティストグリーンカード」も取得している。これは5年経てば帰化することも可能になるという。

 ニューヨークに暮らして2年半が過ぎた。吉田は自身のアメリカ生活をこう語る。

「とても楽になりました。私は私のままでいい、むしろ私のままがいいと気付かせてくれました。すべてが自己決定、自己責任なので芯も強くなったと思います」

 苦労もあった。試合はいつ決まるかもしれない。アウェイの洗礼を浴びたこともある。生活面では物価が異常に高く、そもそも英語に慣れない中、病院に行くことも、Wi−Fi契約を結ぶことさえも大変だったという。それでも、「一度も日本に帰ろうと思ったことはない」と吉田。なぜなら「それを上回る魅力があるし、ニューヨークが合っている気がしています」。

 アメリカ生活で思い出に残る出来事を次々と挙げる吉田からは、あらためてその旺盛な好奇心とチャレンジ精神をみる思いだ。

「アーティストグリーンカードを渡米1年でアプライできたこと。米在住者の中でも一番難しい難関を、ボクシングやこれまでの他競技やメディア露出等の功績が認められてEB1を取得できたこと。NYのLES(ローワーイーストサイド)で月に一度スナックを始めたこと。観光大使を務める島の郷土料理や日本の文化を知れるセレクト小料理屋を月に一度開店予定。カラテコンバットというサウジアラビア発のMMA大会から破格のオファーを頂いたこと(近々出場予定)。もともとは20歳から25歳までは他競技をしていました。日本では掛け持ちは認められていないので諦めていましたが、キャリア終盤、悔いなく終わりたく、並行してトレーニングをしています」

キャリアの行き先

 ボクサー吉田の到達点は、一に4度目の世界チャンピオンだが、タイミングが合えば3階級制覇にも興味を抱いている。37歳になり、残りのキャリアでワクワクするような相手と試合をしていきたいという。

 いつの日か、グローブを壁に吊るしてからも挑戦したいものはいくつもある。ラジオ、ライターやレポーター、本の執筆のほか、全国各地のみならず世界の児童養護施設をめぐる活動をしたい、と吉田は言う。

 最後に、自分の生き方からどのようなメッセージを伝えたいか、と尋ねるとこう語った。

「私は20歳で格闘技も初めましたし、すべてが順分満帆なわけではなく、失敗や挫折を繰り返しながらも諦めないでいまこうしてNYに居ます。やるかやらないか、諦めるか諦めないか、毎日の些細なほんの少しの積み重ねが人生を作りました。何度失敗しても、時にはめげても大丈夫です。一度きりのこの人生が楽しい人生になるように、自分自身の行動で自分を幸せにしていきましょう」


VictorySportsNews編集部