文=内田暁

プロと大学の選択

「こんなことなら、大会前にプロに転向しておけばよかったと思わない?」
シシ・ベリスが、2016年全米オープンテニスで3回戦進出を決めたとき、会見ではそんな質問が、将来を嘱望される17歳の少女に向けられた。

 ベリスは、2年前にワイルドカード(主催者推薦枠)で同大会に出場し、当時世界13位のD・チブルコワを破ったときから、未来のスター候補として全米の注視を集めた選手。そんな彼女が、プロに転向するのか、あるいは大学に進学するのか……それは米国のテニス関係者たちにとって、重要な関心事項だった。

 全米開幕を控えた昨夏の時点で、ベリスは実家からほど近いスタンフォード大学に、スポーツ奨学生として進学の予定であった。スタンフォードは、米国経済誌『フォーブス』が選ぶ“大学ランキング”の上位に常に名を連ね、2016年は1位に選出された名門大学。その名声は学業のみならずスポーツ界(NCAA=全米大学体育協会)にも轟き、テニスでは男子が17回、女子は歴代最多の18回の全米優勝を誇る強豪校だ。

 ベリスが、全米オープンの活躍時に「プロになっていないことを悔いていないか」と問われた訳は、NCAAが定める選手の出場規定にある。NCAAでプレーするには、選手は“アマチュア”でなくてはならない。アマチュアの定義はその時々で多少異なるが、現在は“総額1万ドル以下の賞金しか受け取ってはいけない”と定められている。ただ、大会参戦に必要な経費は、受け取った賞金から払ってよい決まり。つまり、往復の飛行機代やホテル宿泊費などは、受け取り賞金上限の1万ドルには含まれないルールだ。

 ちなみに、全米オープン3回戦の賞金は14万ドル。ベリスは初戦勝利後に、ホテルの部屋をスイートにアップグレードしたとは言うが、それでも掛かった経費は、もらえたはずの賞金の1割にも満たなかっただろう。

 ただし……である。ベリスはスタンフォード大学から、“アスレティック・スカラーシップ(スポーツ奨学生)”として、大学で必要な費用をすべて免除される権利を得ていた。通常スカラーシップは、教科書代などを含む学費に加え、下宿の部屋代や食費が支払われる。さらに大学や選手によっては、遠征費やラケットなどの用具代までもが免除対象になるという。スタンフォード大学の学費は、一年間で6万2000ドル(約700万円)前後。4年間ではその額24万8千ドルにも達するのだから、プロ転向をためらうのも無理からぬことだった。

 なお後日談としては、ベリスは全米後にプロ転向を表明。「だったら、全米で賞金を受け取っておけばよかったのに……」と、外野は要らぬ心配をしたものである。

大学で得た経験と人脈は掛け替えのない財産

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 アスレティック・スカラーシップは、ビジネス面でも選手育成面でも米国スポーツ隆盛の礎を築く、NCAAの核となるシステムだ。NCAAは3部で構成され、アスレティック・スカラーシップを導入しているのは1部と2部。年間で総額290万ドル以上の奨学金が、約15万人の入学者に支払われている。15万人と聞けば大人数のように感じられるが、実際には、高校で活躍したアスリートの約2パーセントという狭き門。なお、支払われる奨学金の額は選手の成績などによって異なり、すべての学費や費用がカバーされるケースは“フル・スカラーシップ”と呼ばれる。

 テニスの世界では、スカラーシップを受けて進学した後、プロに転向するケースも少なくない。かつてはジョン・マッケンローやジミー・コナーズら多くのアメリカ人トップ選手が、大学を経てプロに転向。最近では、グランドスラム16回優勝のダブルス記録を誇るブライアン兄弟(スタンフォード大)や、世界最高ランク9位のジョン・イズナー(ジョージア大)、同10位のケビン・アンダーソン(イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校)らが、現役トッププロとして名を連ねる。

 彼らは大学進学の利点として、優れた指導者をそろえた施設で練習やトレーニングができること、さらには、スポーツ関係者に多くの知己を得られたことを挙げた。特に南アフリカ出身のアンダーソンのように、テニスが決して盛んとは言い難い国の出身者にとっては、大学で実戦経験を積み人脈を築けたことは掛け替えのない財産だ。「アメリカの大学に来なければ、今の自分はなかった」と、アンダーソンは断言した。

 奨学生としてアメリカの大学に進学し、そこからプロ転向か否かを決めるのは、今や日本の若いテニス選手たちも視野に入れる選択肢だ。現在も、錦織圭を輩出したことで有名な“盛田正明テニスファンド”の支援を得て渡米した松村亮太郎(ケンタッキー大学)や、全国小学生テニス選手権優勝の実績を持つ荒川夏帆(アーカンソー大学)らがNCAAで活躍中。また、昨年のオレンジボウル(アメリカ開催のトップジュニア大会)ダブルスを制した堀江亨は、アメリカの大学進学を希望していると言った。

 インターナショナルなテニスの世界では、競技者として活動する上で、英語力を含む国際経験は必要不可欠な要素。米国の大学進学は間違いなく、それらを得る助けになるだろう。あるいは競技者の道を選ばなくとも、大学進学で培った国際感覚や学歴などは、その後の人生で多岐にわたり役立つはずだ。


内田暁

6年間の編集プロダクション勤務を経て、2004年にフリーランスとして活動し始める。2008年頃からテニスを中心に取材。その他にも科学や、アニメ、漫画など幅広いジャンルで執筆する。著書に『錦織圭 リターンゲーム:世界に挑む9387日の軌跡』(学研プラス)、『勝てる脳、負ける脳』(集英社)、『中高生のスポーツハローワーク』(学研プラス)など。