文=二宮寿朗

スポンサーは「むしろパートナー」

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 Jリーグ王者の鹿島アントラーズがクラブワールドカップ決勝まで進み、欧州王者レアル・マドリーを苦しめた一戦は国内外で大きな反響を呼んだ。その後も元日に決勝戦が行なわれた天皇杯も制し、獲得した国内タイトルの数は他クラブを大きく引き離す「19」となっている(2位はガンバ大阪の9個)。

 鹿島の強さを語るにおいて、伝統のジーコイズムやベテラン、中堅、若手のバランスを考えた編成の妙など強化面ばかりがクローズアップされがちだが、事業部門の活躍が常勝軍団の礎となっていることにも注視したい。

 ユニホームの胸スポンサーは1996年から「トステム」が担い(スポンサー契約は94年から)、住生活グループとの合併に伴って2011年からは「リクシル」に移行している。

 親会社を持つクラブ(鹿島なら新日鉄住金)は胸スポンサーに親会社の名前や商品名を入れるパターンが多い。親会社以外のスポンサーと契約しても1度や2度の入れ替えはあるものである。その意味において鹿島のように20年以上にわたって同一企業と契約を継続しているのは極めて稀なケースだと言える。ユニホームの背中スポンサーであるイエローハットも同様に95年以来、関係を続けている。
 
 なぜこれほどまでに強固な関係性を築くことができたのだろうか。事業部門のトップである鈴木秀樹取締役事業部長に以前、この疑問をぶつけたことがある。鈴木氏はこう語った。

「我々との関係性で言えば、スポンサーというよりむしろパートナー的なつながりになっているという意識なんです。それにスポンサーにはスポンサー同士、横のつながりを持ってもらうような関係づくりを意識しています」

常勝軍団を全員で、全体でつくっていく

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 つまりは「Business to Business」の発想。アントラーズを介して企業同士のパイプを太くし、企業間のビジネスにつなげてもらいたいとのスタンスを大切にしてきたという。たとえばイエローハットが新店舗を出す計画があれば、リクシルの商品を紹介することもあった。

 ホームスタジアムであるカシマスタジアムの一室を試合開催日に商談のビジネス部屋として開放。キャンプやACL(AFCアジアチャンピオンズリーグ)でのスポンサーツアーやフットサルの大会を開くなど積極的にスポンサー交流の場をつくっている。

 鹿島側も単に仲介するだけではない。事業部の社員にはスポンサーの商品をよく勉強させるそうだ。鹿嶋市内で商品を宣伝し、メーカーと一緒にエリア戦略まで展開したこともあったとか。ビジネスパートナーという意識が、スポンサーの共感を得てきたのは間違いない。

 現在、クラブオフィシャルスポンサーにはリクシル、イエローハットをはじめ、アイフルホーム、理想科学工業、サントリー、昭和産業、商船三井、常陽銀行、ナイキなど10社以上が名を連ねている。このなかの多くの企業が、クラブとのパートナーシップを長く続けている。

 パートナーであるスポンサーに喜んでもらうためには、まずチームが強くなくてはならない。そうすれば注目度はグッと上がる。世界で中継された今回のクラブワールドカップでは、ユニホームでリクシルやイエローハットといったクラブスポンサーを世界に発信することができた。

 また、どう知ってもらうかも大切だ。今や定番となっている回転式広告看板「アドタイム」、LED広告表示システム「リボビジョン」を他クラブに先駆けて導入している。県の委託を受けてカシマスタジアムを管理、運営できる指定管理者として長期契約を結べているからこそ、ハード面のチャレンジも可能にしている。ホームゲームでどう目立たせることができるか。スポンサー目線を常に心掛けていることがよくわかる。

 鹿島のフロントは強化、事業、運営などの各部門が社長の下でフラットに並ぶ構成で、週一回の全体ミーティングで意思の疎通を図っている。情報の共有をここまで徹底しているクラブも実に珍しい。鈴木はこうも語っていた。

「選手教育のフォローは強化だけがやればいいのかというと、そういうわけではないんです。ウチは事業も運営も含めて、全員でフォローをする。ローカルクラブなんだから知恵を絞ってそれぞれの役割をこなす。その姿勢や考え方はずっと変わっていない。クラブのお金の流れや、各部署の計画を1年に1度、選手たちにも説明する。君たちの給料はこうやって捻出されている、だから支障のない範囲でイベントなどにも協力してくれ、とね」

 常勝軍団を全員で、全体でつくっていくという発想。だからこそ、鹿島アントラーズは強いのである。

二宮寿朗

著者プロフィール 二宮寿朗

1972年、愛媛県生まれ。日本大学卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。格闘技、ボクシング、ラグビー、サッカーなどを担当し、2006年に退社。文藝春秋社『Sports Graphic Number』編集部を経て独立。