福留孝介について

名前福留孝介(フクドメコウスケ)
生年月日1977年4月26日
日本
出身鹿児島県曽於郡大崎町
プロフィール小学3年からソフトボールを始める。中学時代ボーイズリーグの鹿屋ビッグベアーズに所属し、3番、遊撃手として全国優勝に貢献。

PL学園高校に入学後、1年生の5月、2打席連続アーチが認められ5番、三塁手としてクリーンアップ入り。同年秋から4番、遊撃手として活躍。182センチの長身を生かした打撃と抜群の野球センスの良さで注目を浴び、1994年末から1995年にかけてオーストラリア・リズモアで行われた、第1回アジア・ジュニア選手権大会にも全日本の4番として全8試合に出場、3本塁打を打つなどの非凡ぶりを発揮した。同年春の選抜に出場。同年夏の甲子園大阪予選で大会新記録となる7本塁打を放ち、甲子園では初戦の対北海道工戦で2打席連続本塁打。同年の国体秋季大会では高校通算40本塁打をマーク。また、救援投手としても登板し、同大会優勝に貢献。ドラフトでは7球団が1位で指名、抽選の結果近鉄が交渉権を獲得するが、1996年日本生命入り。

同年史上最年少のアトランタ五輪代表となり、銀メダルを獲得。1997年全国社会人野球東京スポニチ大会で日本生命の26年ぶりの優勝に貢献。1999年ドラフト1位で中日に入団。

同年11月新人野手最高タイとなる2900万円アップの4200万円で契約更改。2002年、外野手に転向すると同年は初の首位打者を獲得。以後長距離打者としても才能が開花し、2006年には2度目の首位打者を奪いリーグ優勝に貢献してMVPも獲得。2008年からメジャーリーグに挑戦。シカゴ・カブスと4年契約し、好スタートを切るも徐々に成績を落とし、4年目途中にトレード移籍。その後も成績を残せず、解雇されて5年目を終える。2013年からは阪神と契約して日本球界に復帰。2年間不本意な成績が続いたが、3年目に10年ぶりの20本塁打を達成。2016年は4番を務めることも多く、存在感を示している。2017年からはチームのキャプテンを努めている。

NPB時代の通算成績は1,512試合、5,324打数1,576安打、238本塁打、847打点、73盗塁、打率.296(2016年まで)。首位打者2回、最高出塁率3回、MVP1回、ベストナイン4回、ゴールデングラブ賞5回、若獅子賞。MLB時代の通算成績は596試合、1,929打数498安打、42本塁打、195打点、29盗塁、打率.258(2016年まで)。PL学園卒、日本生命出身、右投左打、182cm、93kg。

鹿児島から野球留学し、PL学園では1年生から4番を任される

福留孝介は、日本の本土最南端に位置する鹿児島県の大隅半島に生まれます。小学3年から地元のソフトボールチーム「大崎ソフトボール少年団」に入団すると、5年生でエースになり、6年時には全国大会に出場します。中学時代、「鹿屋ビッグベアーズ」に入団すると、はやくも完成されたスイングでチームを全国優勝に導きました。高校進学の際は、11校もの強豪校から誘いがありましたが、遠く離れた大阪の地、PL学園を選択します。小学生時代に、中日・宮崎キャンプを見学して以降、立浪和義に憧れを抱いたことが大きな理由でした。

当時としては、前例のない鹿児島からの野球留学でしたが、1年生から結果を出し続けます。秋から名門チームの4番を任されると、2年春にはセンバツに出場してベスト4に貢献しました。3年夏には、高校No.1スラッガーとしての打力を十二分に発揮します。大阪府予選大会では8試合で大会記録の7本塁打を放ち、自身は夏初めての甲子園出場を決めました。そして迎えた本戦では、初戦で満塁弾を含む2打席連続本塁打で度肝を抜きました。べスト8で敗れはしたものの、15打数7安打とスカウトをうならせました。

ドラフト歴代最多の7球団競合となるも、近鉄1位指名を拒否

当然のようにドラフト会議では注目の的となり、高校生指名としては歴代最多の7球団が1位指名で競合します。そして高校時代からプロを見据えていた福留孝介は、意中球団である中日か巨人以外なら、社会人野球に進むことを決めていました。抽選の結果、近鉄バファローズが交渉権を獲得しましたが、宣言どおり指名を拒否して日本生命に進みます。この時、クジを引いた佐々木恭介氏とは、実は後に恩人ともなった人物でした。

3年間の社会人野球時代に、当時史上最年少でアトランタ五輪日本代表にも選出されます。決勝のキューバ戦は壮絶な打撃戦となり、惜しくも敗れ銀メダルに終わりましたが、自身は全9試合に出場して2本塁打、8打点と活躍を見せました。

中日入団後、外野手に転向すると打撃も開眼して首位打者獲得

1998年、ドラフト会議で中日ドラゴンズを逆指名して念願のプロ入りを実現します。球団も次世代スター候補選手として、福留孝介に背番号1を与えました。その期待に違わず、ルーキーイヤーから132試合に出場して打率.284、16本塁打とレギュラーに定着します。しかしそこから3年目まで徐々に打撃成績が下がっていってしまいました。その大きな原因は、遊撃手としての脆い守備であり、エラーを連発していたことがあげられます。

2002年、悩める福留は攻守に転機を迎えます。強肩をいかして本格的に外野手へコンバートされると、以後ゴールデングラブ賞を多く受賞する名外野手へと生まれ変わりました。そして低調だった打撃にメスを入れたのは、当時打撃コーチを務めていた佐々木恭介でした。近鉄では同じユニフォームを着られませんでしたが、二人三脚で大幅な打撃改造に着手しました。それはすぐに結果として現れ、松井秀喜(当時巨人)の3冠王を阻む首位打者を奪い、一気にスターダムにのし上がりました。

中日不動の3番打者として君臨し、WBCでも日本の優勝に貢献

その後は中日クリーンナップに不動となり、2003年からは本塁打も急増します。同年は34本塁打、96打点と中軸の役割をしっかり担いました。その後も4年連続で20本塁打以上と長距離打者としても完全に独り立ちしました。

そして自身8年目の2006年は、福留孝介にとってさらに飛躍の年となりました。シーズン前には、第1回WBCの日本代表に選出されます。当初3番打者としてスタメン出場を続けていましたが結果が出ず、スタメンから外されました。そして一発勝負の韓国との準決勝、0-0の緊迫したスコアのまま終盤に進み、7回のチャンスの場面に代打で登場します。ここで先制かつ決勝アーチを放ち日本を決勝に導きました。さらに決勝でも代打2点タイムリーと少ないチャンスを確実にものにして日本の優勝に貢献しました。

帰国後もシーズンで大活躍します。3番福留、4番ウッズのクリーンナップは超強力で、自身は首位打者、ウッズは本塁打と打点の2冠に輝き、打撃部門3つのタイトルを二人で独占します。6月から首位を独走した中日は、そのままリーグ優勝しました。打率.351、31本塁打、104打点で自身初のMVP獲得となりました。

メジャー挑戦するも、5年間不完全燃焼に終わる

中日で9年間を過ごすと、2008年からは活躍の場をメジャーリーグに移します。シカゴ・カブスと4年契約を締結し海を渡ると、開幕戦から5番打者として出場しました。初打席で二塁打を放ちファンの心を掴むと、劣勢の最終回では、相手クローザーから同点3ランを放つという鮮烈なデビューを飾りました。4月こそ好調を維持しましたが、5月以降は攻守に不本意な成績が続き初年度を終えます。2年目もレギュラーとして試合に出場しましたが、成績としては平凡に終わり、3年目はついに規定打席にすら到達できませんでした。

高いレベル差を埋められず契約最終年度には、シーズン途中にトレード移籍となりました。環境が変わっても、成績は向上せず、5年目を新たにシカゴ・ホワイトソックスで迎えましたが、怪我で離脱するとそのまま解雇されるという屈辱を味わいました。同年はアメリカでもがき続けましたがメジャー昇格は叶いませんでした。
日本では2度も首位打者を奪った福留でしたが、メジャー5年間では一度も打率3割の壁を越えることができず、挑戦にピリオドを打つこととなりました。

阪神タイガースで日本球界復帰し、10年ぶりの打率3割を達成

この時点で35歳の福留孝介は日本球界復帰を決断し、獲得に名乗りを上げた球団の中から阪神タイガースを選択し、3年契約を締結しました。しかし最初の2年は、ファンの期待を大きく裏切る形となってしまいます。初年度は怪我の影響もあって、63試合出場に留まり、打率もまさかの1割台でした。2年目も規定打席に到達できずに、打率.253と限界説すら囁かれるようになります。しかし移籍3年目の2015年は、クリーンナップとして活躍し、打率.281、20本塁打、76打点と打撃3部門全てチームトップの成績を残しました。

新たに契約を延長して臨んだ2016年は、後半戦でほぼ4番に座りました。6月には日米通算2000本安打も達成し、7月には史上4人目となる2度目のサイクルヒットを達成するなど、39歳という年齢を感じさせないプレーを見せます。打率は2006年以来の3割を超えて、リーグ5位の.311をマークしました。40歳で迎える2017年シーズンも、阪神に不可欠な戦力としてそしてチームキャプテンとして、クリーンナップに君臨しています。


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