杉内俊哉について

名前杉内俊哉(スギウチトシヤ)
生年月日1980年10月30日
日本
出身福岡県大野城市
プロフィール小学校3年で野球を始め、6年の時に全国大会に出場。大野中3年時にはエースとして全国大会準優勝を果たす。1998年夏の甲子園に鹿児島実業高のエースとして出場。1回戦の対八戸工大一高戦で16奪三振1四球のノーヒット・ノーランを達成、夏の大会では11年ぶり史上21人目の快挙を成し遂げる。2回戦では横浜高の松坂大輔(現・西武)と対戦、熱投するが、敗退。また、同年9月アジアAAA選手権の日本代表にも選ばれる。

1999年三菱重工長崎造船所に入社。2000年4カ国国際大会で全日本入り。同年シドニー五輪は4位。

2001年11月ドラフト会議ではダイエーに3巡目で指名される。プロ2年目に初の二桁10勝をマークし、日本シリーズでもMVPを獲得。2005年には18勝で最多勝、最優秀防御率のタイトルを奪い、沢村賞、MVPも受賞。2007年からは4年連続二桁勝利をマークし、その間、最多奪三振、最高勝率のタイトルをそれぞれ2年連続で獲得。2011年オフ、FA権を行使し巨人へ移籍。空き番となっていたエースナンバー18を背負うと、いきなりノーヒット・ノーランを達成。移籍初年度から3年連続二桁勝利を達成してリーグ3連覇にも貢献。2015年、股関節痛を発症し、同年オフに大手術。リハビリのため、2016年シーズンを棒に振り、2017年中の復活を目指している。

通算成績は316試合、142勝77敗、防御率2.95、2,091回1/3、2,156奪三振。最多勝1回、最優秀防御率1回、最多奪三振3回、最高勝率2回、MVP1回、沢村賞1回、ベストナイン1回。(2016年まで)。鹿児島実卒、左投左打、175cm、80kg。

甲子園ノーヒット・ノーランも松坂を前に大敗

杉内俊哉は、中学卒業までを生まれ故郷の福岡県で過ごしました。小学5年生から、地元の野球チームに入り野球を始めると、6年生時には投手として早くも全国大会で活躍するほどとなります。中学時代はさらに投手としての才能が開花し、所属した大野城ガッツを全国準優勝にも導きました。高校進学には鹿児島実業を選択し、福岡を離れました。当時の鹿実は強豪で、杉内が入学する直前の1996年センバツでは初の全国優勝を成し遂げていました。その勢いで、同年から3年連続で夏の甲子園に出場します。杉内は2年生ながら甲子園の初マウンドを先発で経験しましたが、終盤に打ち込まれて初戦敗退しました。

3年となった杉内は、県大会で47回2/3を投げて64奪三振と、南国のドクターKの異名をとりす。県大会決勝では、川内高の木佐貫洋との息詰る投手戦を制し、甲子園でリベンジするチャンスを得ました。杉内は1回戦でノーヒット・ノーランを達成し、最高の形で甲子園1勝を刻みます。そして2回戦の相手は、怪物投手・松坂大輔率いる優勝候補の横浜高校となりました。7回まで0-1と均衡していましたが、8回裏に松坂に2ランを浴びるなど5失点し、2回戦で姿を消しました。

高校卒業後は、三菱重工長崎に入社して社会人野球に進みます。2年目には都市対抗出場にも貢献し、シドニー五輪日本代表にも選出されました。そして集大成は3年目の日本選手権でした。破壊力満点の打力を持ち、後藤隆之・杉内の左右エースが大活躍して、悲願の初優勝を成し遂げました。そして、2001年ドラフト会議を迎えました。

入団2年目に初の二桁勝利、日本シリーズMVPと大活躍

ドラフト会議では、超高校級投手・寺原隼人に話題が集中し、4球団競合の末、福岡ダイエーホークスが交渉権を獲得しました。そしてその興奮冷めやらぬうちに、杉内俊哉もダイエー3巡目指名を受けて入団します。地元球団からの指名ばかりか、憧れていた左腕・工藤公康と同じ背番号47も与えられました。

即戦力として、1年目から9試合に先発しますが2勝に終わります。しかし2年目からは早くも先発ローテーションに定着します。投球イニング数を上回る三振を奪い、二桁10勝も達成してリーグ優勝に貢献しました。その先の日本シリーズではさらに素晴らしく、第2戦、第6戦にともに先発して2勝をあげます。チームは4年ぶり6度目の日本一を達成し、杉内はシリーズMVPに輝きました。

隔年エースの汚名を返上する4年連続の二桁勝利

2004年は自身の不注意で骨折を負い、長期戦線離脱したためシーズン2勝に終わりました。翌年は、開幕から2ヶ月連続月間MVPを奪うなど好調を維持し、勝ち星を積み重ねます。最終的には、キャリアハイの18勝を稼ぎ、防御率2.11に敗戦数はわずか4つとほぼ完璧な内容でした。すべて自身初となる最多勝、最優秀防御率のタイトルと共に、沢村賞、シーズンMVP受賞とキャリアハイのシーズンとなりました。しかし、2006年は7勝5敗に終わり、1年おきでしか活躍できない隔年エースという不名誉な称号を背負ってしまいました。

しかし杉内俊哉は長年かけて、その汚名を返上する活躍をみせます。2007年は、15勝、防御率2.46、187奪三振と見事に復調します。そして鬼門の好成績を挙げた翌年となる2008年は、勝利数は10勝に留まりましたが、213三振を奪い、最多奪三振の初タイトルを手にしました。さらに翌年も、リーグ2位の15勝をマークし、2年連続の最多奪三振に、最高勝率の2冠を獲得。そして2010年もリーグ2位の16勝に、2年連続最高勝率のタイトルを獲得しました。杉内は、4年連続の二桁勝利、3年連続で投手タイトル獲得し、名実共にホークスのエース格としてチームに貢献しました。

国際大会では先発にリリーフにフル回転し、WBC連覇にも貢献

杉内俊哉は社会人時代にも経験した国際大会でも結果を残しています。また2008年の北京五輪では、日本は4位とメダルを逃しましたが、先発として2試合に登板し1勝0敗、防御率0.84という成績を残しました。

またWBCには2006年の第1回大会から日本勢として唯一の3大会連続出場をしています。特に連覇を決めた2009年には、オールリリーフとして5試合に登板し、6回1/3を無失点に抑えました。いずれも相手の流れを止めるピッチングで、影のMVPとも称されました。

脱力した独特の投球フォームは、あらゆる左腕投手の手本となる

杉内俊哉の持ち球としては、ストレート、スライダー、チェンジアップがメインであり、高校時代得意としていたカーブの割合はそれほど多くありません。どの球種も全く同じフォームで投げますが、ストレートが格段に早いわけではないことも特徴です。それでもしっかり抑えて高い奪三振率をキープできるのは、そのゆったりとした投球フォームにあります。脱力した状態から、ボールをリリースする瞬間に一気に力をこめるフォームの為、球持ちがよく140キロ程度の球速にも関わらず、打者は振り遅れます。腕を振ってから球を投げるとも形容されたフォームは、杉内の代名詞ともなっており、各球団のコーチはもとより、現役選手すら手本としているほどです。

FA移籍した巨人では背番号18を背負い、リーグ3連覇に貢献

ホークスで10年を過ごした杉内俊哉は、2011年オフにFA権を行使し、読売ジャイアンツへ移籍します。大型4年契約を締結し、桑田真澄の退団以降空き番となっていた背番号18を手にしました。外様でありながらも、巨人のエースナンバーを与えるのは時期尚早ではないという意見も出ましたが、シーズンが始まると批判を実力でねじ伏せました。順調に勝ち星を稼いで迎えた5月末、楽天戦においてノーヒット・ノーランを達成しました。同年は12勝に防御率2.04、そして史上初となる両リーグ最多奪三振のタイトルを獲得し、チームの日本一に貢献しました。

その後も安定したピッチングを続け3年連続二桁勝利で、チームのリーグ3連覇に貢献します。2014年には、史上最速の2000奪三振を記録し、名球会入り条件となる200勝を目指していました。

選手生命を脅かす怪我に対して、前例の無い大手術を敢行

しかし、2015年その後の選手生命を脅かす股関節痛が発症します。痛みに耐えながらも前半戦を戦い抜き6勝をマークしましたが、もはや限界を超え後半戦は戦線離脱となりました。治療するには手術が必要でしたが、過去に前例がなく復帰にはどのくらいの時間を要するのか誰もわからない状態でした。それでも現役復帰を目指して、右股関節の手術を敢行し、長期リハビリに入ります。少なくとも1年近くはかかるため、同年オフには球界史上最大の減俸を受け入れて球団に残りました。

自身も含めて松坂世代といわれた年代もべテランの域に差し掛かりました。世代の中心だった松坂大輔もメジャー生活を断念してソフトバンクホークスに復帰するも、2016年の登板はわずか1イニングに終わります。そして杉内自身も、2016年はプロ入り15年目で初めて一軍登板ゼロに終わりました。それでも先発として再びマウンドに戻る為、リハビリを続けています。


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