衣笠祥雄について
名前 | 衣笠祥雄(キヌガササチオ) |
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生年月日 | 1947年1月18日 |
国 | 日本 |
出身 | 京都府京都市東山区馬町 |
プロフィール | 京都・平安高の時、捕手として甲子園に出場。
1965年広島に入団し、内野手に転向。1968年レギュラーとなる。1970年10月19日対巨人戦以来、17年間で2,215試合連続出場の世界記録(1996年6月リプケンに破られる)を達成、1987年国民栄誉賞を受賞した。“鉄人”といわれるが、実際はけがが多く、不屈の精神力と忍耐で不滅の大記録を更新した。この間、山本浩二とともに広島の中心選手として計5回のチーム優勝に大きく貢献し、1984年には打率.329で初の3割、102打点で初の打点王を獲得、セリーグの最優秀選手(MVP)に選ばれた。1987年シーズン終了後引退し、以後は野球解説者、スポーツコンサルタントとして活躍。広島県立大学客員教授、中教審専門委員も務める。1996年野球殿堂入り。著書に「お父さんから君たちへ」「ルー・ゲーリックを超えて」「人生、フルスイング」。 通算成績は2,677試合、9,404打数2,543安打、504本塁打、1,448打点、266盗塁、打率.270。打点王1回、盗塁王1回、最多安打1回、MVP1回、ベストナイン3回、ゴールデングラブ賞3回、正力松太郎賞1回、広島県民栄誉賞、国民栄誉賞、京都市市民栄誉賞、中国スポーツ賞。平安高卒、右投右打、175cm、73kg。 |
平安高校時代、春夏連続で甲子園出場してともにベスト8入り
後に鉄人と称される衣笠祥雄は、在日米軍の父と日本人の母の子として京都で生を受けます。日本人離れした身体能力を持ち、小学生時代から柔道に励んでいました。中学でも柔道を続けるはずが同校には柔道部が無かったため、止む無く野球部に入部します。するといつしか野球にのめりこむようになり、甲子園出場を夢見るようになりました。そして京都有数の名門校・平安高校に進学します。当時の時点で春夏あわせて40回の甲子園出場という強豪校時代は、プロ野球中継を見たことがないほど猛練習する日々を送りました。
しかしその甲斐あって自身が主力だった3年時は、春夏連続で甲子園に出場します。捕手として出場した衣笠は、ともに高知県代表に敗れはしたものの、春夏ベスト8という好成績を残して高校生活を終えました。
広島東洋カープに入団すると、11年目に球団創設初優勝に貢献
そして1965年、衣笠祥雄は広島東洋カープへ入団します。入団後、内野手に転向すると4年目の1968年には一塁手レギュラーを掴み、21本塁打と頭角を現しました。当時は背番号28を背負っており、小柄ながらも体が頑丈であるため漫画「鉄人28号」から鉄人という愛称で親しまれました。
そこからしばらく、低打率ながらも長打力のある打者としてプレーします。1971年には全試合4番を務めるなど中軸として活躍するも、チームは1950年の創設以来、常にBクラスと低迷が続いていました。しかし、1975年に一気に転機が訪れます。監督にジョー・ルーツが就任すると、まずチームカラーが燃える赤に統一されます。そして衣笠は背番号3に変更して三塁手にコンバートされると、山本浩二と不動のクリーンナップを形成します。そして山本と揃って出場したオールスターゲームでは、お互い2打席連続アベック本塁打を放ち、さらにチームを上昇気流に乗せます。そして途中監督に就任した古葉竹識がチームを率い、球団創設25年目にして初のリーグ優勝を達成しました。
広島黄金時代を中軸打者として牽引し、3度の日本一を達成
優勝の2年後5位まで順位を下げましたが、以後広島は常勝軍団として黄金時代を築き上げていきます。衣笠祥雄は、1971年からスタートしていたフル出場を続け、三塁手レギュラーを誰にも渡しません。1976年には、自身初タイトルを盗塁王で飾り、1979年には念願の日本一にも貢献しました。さらに翌年も日本シリーズを勝ち抜き、球団初の連覇も達成します。この間、4番山本浩二と不動のクリーンナップを務め、長距離打者二人はYK砲として他球団から恐れられました。コンビによるアベック本塁打は、王貞治、長嶋茂雄のONによる106本がトップですが、YK砲も86本と歴代2位の数字を残しています。
1983年には、史上16人目の通算2000本安打を達成し、広島生え抜き打者としては初の名球会入りを果たします。さらに翌1984年には、打率.329、31本塁打、102打点と好成績を残し、4度目のリーグ優勝、3度目の日本一に貢献します。自身初の打率3割突破に、初の打撃タイトルとなる打点王、シーズンMVPも受賞しました。さらに、1986年は、日本一こそ逃しましたが、5度目のリーグ優勝と、まさに広島黄金時代を中軸として牽引しました。
赤ヘルの鉄人は、2,215試合連続出場を達成して現役生活を終了
1986年、衣笠祥雄は39歳でシーズンを迎え、1970年10月から続く連続試合出場を、ついに2,000試合にまで伸ばします。それでも終盤、深刻な打撃不振に陥り、打順は7番まで降格していました。広島は何とかリーグ優勝しましたが、衣笠のシーズン打率は.205にまで落ち込んでいました。それでも同年もフル出場を続け、ルー・ゲーリッグの持つ連続試合出場世界記録まであと45試合と迫っており、1987年も開幕戦から出場を続けます。そして同年6月13日、自ら本塁打も放って世界新記録に花を添えました。その後も最終戦まで出場し続け、2,215試合まで記録を伸ばしますが、年齢から来る衰えには勝てず同年限りで現役引退をしました。
途中、衣笠の記録が途切れそうになったことは何度もありました。実は衣笠はプロ野球史上でも3位の多さという161回の死球を受けています。死球を受けてもすぐに立ち上がり、何事もなかったかのように一塁ベースへ走っていました。しかし、1979年8月、死球で左肩甲骨骨折を負い全治2週間という診断を受けます。さすがに記録ストップと誰もが思いましたが、翌日代打としてファンの前に姿を現しました。結果はフルスイングでの三振でしたが、さらに翌日には早くもフル出場と、鉄人の名をさらに強固なものとしました。大記録達成の約10日後には、王貞治に次いでプロ野球選手としては2人目の国民栄誉賞が与えられました。後にメジャーリーグで、カル・リプケンが2,632試合連続出場を達成して、衣笠の記録は世界第2位になりました。しかしながら、鉄人の記録が色褪せたわけでは決してありません。
三拍子揃った名選手であることを証明する数々の歴代記録
衣笠祥雄は、体が丈夫だったことに加えて、若いころから走攻守と三拍子揃ったオールラウンドプレイヤーだったがゆえに、連続試合出場記録という偉業を成し遂げられました。その証拠に、数々の大記録を残しています。いずれも2016年末の数字ですが、通算安打2,543本(歴代5位)、通算本塁打504本(歴代7位)、通算打点1,448(歴代11位)、通算得点1,372(歴代6位)というどれをとってもすばらしい数字です。
さらに通算盗塁数も266を数え、500本塁打&200盗塁を達成しているのも、張本勲、山本浩二と衣笠の3名だけ、打点王と盗塁王の両受賞経験があるのも、飯田徳治とイチロー、衣笠の3名だけであります。三塁手としての守備力も高く、ゴールデングラブ賞も3度受賞しています。
現役引退後は、指導者としてユニフォームを着ることなく、野球解説者、野球評論家として活躍中です。