金村義明について
名前 | 金村義明(カネムラヨシアキ) |
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生年月日 | 1963年8月27日 |
国 | 日本 |
出身 | 兵庫県 |
プロフィール | 在日朝鮮人3世として生まれる。1981年夏の甲子園に投手として出場、兵庫・報徳学園を優勝に導く。
翌年ドラフト1位で近鉄に入団、打力を生かすため三塁手に転向し、1986年レギュラーを獲得。1994年FA宣言し中日に移籍。1997年シーズン途中、西武に移籍。1999年シーズン終了後、引退。フリーの評論家となる。2000年芸能プロダクション・古舘プロジェクトと契約。同年半生を綴った「在日魂」を刊行、話題となる。現在は金村企画に所属している。 通算成績は1,262試合、3,643打数939安打、127本塁打、487打点、34盗塁、打率.258。報徳学園高卒、右投右打、185cm、90kg。 |
報徳学園時代、春夏連続で甲子園出場し夏は全国制覇
金村義明は、兵庫県に生まれます。幼い頃から野球を始めますが、その目的はプロ野球選手になりたいからではありませんでした。小学生当時に、センバツ優勝を成し遂げた報徳学園のユニフォームを着ることに強い憧れを持ち、実母から「逆転の報徳」の話を聞いてさらにその気持ちを強くしました。そして中学生から、その報徳学園に入学します。高校3年生になると4番打者とエースというチームの主力となり、春のセンバツに出場しました。ところが初戦で、槙原寛巳(後に巨人入り)率いる大府高校と対戦し、自身は本塁打を放つも3-5で敗れてしまいました。
報徳に対する世間の期待は大きかったため、1回戦負けにはかなりの批判を受けました。それを覆すため、金村は夏の県予選から驚きの投球を披露します。予選7試合をオール完投で勝ちあがり、再び甲子園の舞台にたどり着きました。そして目標だった1回戦突破をクリアすると、その後も名門校を次々と撃破していきます。2回戦では前年度優勝の横浜高校(神奈川)と対戦し自身の2打席連続本塁打等で見事な勝利をあげます。
続く3回戦、荒木大輔率いる早稲田実業学校高等部(東東京)との対戦では、9回に3点差を追いついて延長サヨナラ勝利するという、まさに「逆転の報徳」を実現しました。準々決勝では今治西高校(愛媛)を退け、準決勝では工藤公康率いる名古屋電気高校(愛知)と対戦し自らの3安打でついに決勝戦までやってきます。そのままの勢いで決勝戦も制し、報徳学園として夏初優勝を飾りました。投手として、県予選7試合に甲子園6試合をすべて完投するという戦後2人目の快挙、さらに打っても打率.545、2本塁打と大活躍し全国優勝の立役者となりました。
近鉄バファローズ1位指名で入団し、内野手へ転向
1981年ドラフト会議では超高校級選手として注目され、近鉄バファローズと阪急ブレーブスからともに1位指名されました。実は、金村義明は長池徳士のファンだったことから阪急が希望でした。しかし、交渉権を獲得したのは近鉄で、説得されて入団すると投手から内野手へと転向します。というのも、3年春に甲子園で対戦した槙原寛巳の投球を見て、投手としての才能の違いに愕然としたことが理由でした。
高卒ルーキーだけに、まずは二軍でじっくり体力つくりに専念しつつ、ウエスタンリーグには全試合出場して経験もつみます。またジュニアオールスターにも出場し、サイクルヒットを放つなどかなり目立った存在でした。それでもレベル差は大きく、入団して4年間は時折一軍試合に出場するも打率1割台となかなか定着できませんでした。
豪快なイメージそのままに、いてまえ打線の中核として活躍
ようやく頭角を現したのが、5年目の1986年でした。それまで代打や守備固めなどの出場がメインだった金村義明は、羽田耕一から三塁手レギュラーを奪い、いきなりフル出場を果たしました。打率.275、23本塁打、67打点と成績も残し、ここから近鉄いてまえ打線に不可欠な存在となります。主に中軸打者の後を打つ5番や6番打者を務め、勝負強いバッティングで長年レギュラーとして名を連ねました。
パンチパーマのいでたちに、大酒飲みとかつてのプロ野球選手の名残があり、豪快だったパ・リーグのイメージを継承していた最後の選手とも言われました。いざ乱闘となると、血相を変えて先頭に立っていたこともあります。近鉄でのリーグ優勝は1989年の1年だけであり、中軸を打ったブライアントや石井浩郎たちと比較すると乏しい成績でしたが、近鉄いてまえ打線から金村をはずすことはできませんでした。
中村紀洋の台頭で出場機会が激減し、球団初のFA宣言
1991年、4年ぶり3度目のフル出場を果たしますが、翌年から出場機会が激減していきます。さらに1993年から鈴木啓示が監督に就任すると世代交代を推し進め、同年は47試合、1994年は80試合の出場に留まりました。球団としては、中村紀洋を三塁手の新レギュラーとして積極的に起用するようになったのです。
同年の金村義明は、規定打席不足ではあったものの、初めて打率3割に近づき年齢的にも31歳と若かったこともあって、出場機会を求めて近鉄を去る決断をしました。そして1994年オフに、球団としては初のFA宣言をしました。
2球団を渡り歩くも、元猛牛戦士は日本一未経験のまま現役引退
金村義明に声をかけたのは、中日ドラゴンズでした。そして中日初のFA移籍選手として初めてセ・リーグへやってきました。中日三塁手は主将だった仁村徹が務めていましたが、1995年のスタメン三塁手には金村の名前がありました。しかし、慣れないリーグにも戸惑い、早々に怪我で戦線離脱してしまいます。結局、レギュラー獲得以後ワーストの28試合出場に終わり、翌年も42試合とまったく戦力になれませんでした。
中日3年目シーズンとなる1997年開幕直後、西武ライオンズへトレード移籍が決定します。パ・リーグへ復帰すると、レギュラーではないものの73試合に出場して、打率.306と存在感を示しました。同年からのリーグ連覇にも貢献し、1989年以来の日本シリーズにも出場しましたが、結局一度も日本一にはなれませんでした。そして西武へ移籍して3年目の1999年、36歳にて現役を引退しました。
現役引退後は軽快なトークで解説者として人気
現役引退後の金村義明は、指導者としてユニフォームを着ることなく、野球解説者として過ごしています。テレビやラジオなどでの軽快で絶妙なトークは人気を博し、さまざまなレギュラー番組に出演しています。また2000年には、自身の著書「在日魂」(講談社文庫)で在日韓国人3世であることを公表しています(帰化して日本国籍取得済)。