【後編】亀田興毅×大毅「和毅は、覚悟を決めたんやと思います」

インタビュー&構成=二宮寿朗

自分のボクシングのレベルなんて、あんなもんですよ(興毅)

©松岡健三郎

――興毅さんは2015年10月、アメリカ・シカゴで河野公平選手の持つWBAスーパーフライ級王座に挑戦し、判定で敗れて試合後にすぐさま引退を表明しましたよね。

興毅 もうすぐ29歳というときで、もともと(現役は)30歳までと言っていたんです。それに河野選手とシカゴでやることが決まった時点で、勝っても負けてもこれで終わりにしようって。(ライセンスがおりないため)日本で試合ができず、収入もない。ボクシングが好きでも、やりたくてもできない苦しい状況でした。だから最後、悔いを残さないようにやり切ろうと決めたんです。

――迷いはなかった、と。

興毅 ないですね。あの時点でやれることはやりましたから。自分のボクシングのレベルなんて、あんなもんですよ。

――「自分の中」ということは、大毅さんにも相談していなかった?

大毅 何となく空気感で分かっていましたよ。

――大毅さんは2015年9月、1年9カ月ぶりの再起戦で敗れた後、その2カ月後に左目の網膜剥離を明かして引退を表明しました。

大毅 10月にはお兄ちゃんの試合もありましたからね。でも試合が終わった時点で、引退を決めていました。(無名の相手に)取りこぼしたんですから。

――網膜剥離は3度、手術していた、と。

大毅 最後の試合の1年3カ月前、メキシコで合宿していたときになってしまったんですよ。網膜をくっつける手術を3回、白内障も入れると4回やりました。もちろん手術して治ったんで試合ができたんですけど、ほぼ1年間、練習できなかったんです。

――振り返ってみて、どんなボクシング人生でした?

興毅 目標にしていた3階級制覇もできましたから、まあまあ満足のいくボクシング人生やったんじゃないかとは思いますよ。

大毅 僕の場合は、いろんな経験をさせてもらって、ムチャクチャ苦しい時期もありました。でもそんな経験、なかなかできないし、終わってみれば幸せやったなってホンマに思います。

興毅 大毅はできる限りのことをやったんじゃないですかね。だって、オヤジに無理やりボクシングをやらされて、俺とか和毅と違ってイヤイヤで始めてますから(笑)。練習も好きじゃない。でもね、最後の最後で大毅はボクシングを好きになったんです。

――と、言いますと?

大毅 網膜剥離になる2カ月前ですかね。マイアミで合宿して、メッチャ練習したんですよ。ジムの周りにコンビニとか何にもないし、ボクシング漬け。そんな生活をしていたら、世界ランカーとのスパーリングでも相手のパンチをまったくもらわなくて、自分のパンチが当たるだけ。『うわ、俺、かなり強くなってんな』って。同じヤツと和毅がスパーすると、まあまあいい勝負になっていて。『今なら和毅より強いな』って思ったし、『もっと練習しよう』って思たんです。

興毅 まあ、でも歯がゆいですよ。だってボクシング漬けの環境は、子供のころからあったわけですからね(笑)。

大毅 ハハハ。確かにそうやな。

興毅 要は、気持ちの持っていき方で、急激に伸びた。2階級制覇して、25歳から伸びたっておかしいですよね。伸びしろがあったのは、練習をやっていないから。実は、大毅が当時WBA世界バンタム級のスーパー王者だったファン・カルロス・パヤノに挑戦するっていう話が決まりかけていたんですよ。そんなときに網膜剥離になって、残念でしたね。

100%納得できたと言えるのは、デビュー戦(大毅)

©松岡健三郎

――大毅さんは「ボクサー亀田興毅」をどう見ていました?

大毅 一番強かったのは、10代のころじゃないですか。15歳で世界チャンピオンレベル。スパーリングやるのも、みんなお兄ちゃんとやるの嫌がっていたし、やっぱりカウンターの勘が、すごいんですよ。10代の実力を維持していたら普通に4階級制覇していたと思いますね。世界チャンピオンになって、段々と弱くなっていったかな。

興毅 そのとおりやと思います。俺、世界王者(WBA世界ライトフライ級)になって、20歳のときのファン・ランダエタとの2戦目(3-0判定勝利)から、戦い方が明らかに変わりましたから。10代のころはギリギリの距離を踏み込んでカウンターのタイミングを取っていました。でもキャリアの後半になってくると、そのタイミングを取れていない。5センチ、10センチの距離を踏み込めていないんです。近い距離になって、相手のパンチをもらう覚悟を持ってギリギリのタイミングで打っていかなアカン。そこが一番ボクシングは難しいんですけどね。

――どうして「10センチの距離」を踏み込めなくなった、と?

興毅 やろうとはしたんですよ。ただ、絶対に負けられない試合がポイント、ポイントであったというのもあります。たとえば内藤大助選手との試合は、しっかりと勝ちに徹するボクシングをしました。ノーモーションのストレートを打っていても、腰を入れていない。腰を入れたら倒せるかもしれないけど、10センチに入ってしまいますから。ランダエタとの2戦目もそうですけどね。勝ちに徹しました。小さいときからボクシングをずっとやっているから、テクニックはあるんです。「勝ちに徹しろ」って言われたら、そうできる。ウーゴ・ルイスとの試合もそうですよね。ポイントアウトしようと思えばやれるんで。

大毅 ポイントアウトで勝って許されるのはフロイド・メイウェザーぐらいでしょ。

――でも、納得できない自分がいたわけですね。

興毅 迷いましたよ。だって自分がやりたいのは、倒すボクシング。それは一貫して変わっていない。眠たい試合をしたらお客さんに失礼やと公言しているのに、キャリアの後半はそういうつまらないボクシングになってしまっていましたから。

――興毅さんはプロキャリア13年、35戦、大毅さんは9年半、34戦のキャリアの中で納得できた試合というのはありましたか?

興毅 1試合もないですね。試合が終わった後、こうしておけばっていうのは常にありましたし、満足できずに終わってしまいましたね。

大毅 俺はそれなりにありましたよ。100%納得できたと言えるのは、デビュー戦。公言した時間内で終わらせることができたし、ボクシングって簡単なんやなって思いましたね。練習は嫌いやけど、試合はおもろいなって。顔に一発当てて倒して、俺のパンチは宇宙一って思いましたもん(笑)。そうしたら次の試合は、何発当てても倒れへん。判定になって、こりゃアカンなって。世界戦で言えば、2階級制覇したロドリコ・ゲレロとのIBF世界スーパーフライ級王座決定戦(3-0判定勝ち)ですかね。

――ボクシングを通じて何を教えられました?

興毅 教えられたかどうかより、今自分があるのはボクシングのおかげ。たまたま世の中に名前が知られるようになって、いろんな人に会う機会をもらった。親父から教育を受けてきて、ボクシングを通じていろんなことを勉強できた。ボクシングで世界チャンピオンが一つのゴールとしたら、成功体験が自分の体に染み込んでいるというのもありますよね。違う分野でも、ボクシングに置き換えて考えてみるんです。何をやってもやれるっていう自信を、ボクシングから得ることができましたね。

大毅 俺も人脈は、すごく財産になっていますよ。学歴的には中学しか出ていませんけど、世界チャンピオンの肩書を持っていると、どこかの会社の社長さんとか、普段会えないような人とも話せたりするじゃないですか。それはボクシングをやってきて、世界チャンピオンになれたからやと思います。

《後編へ続く》©松岡健三郎亀田興毅×大毅「和毅は、覚悟を決めたんやと思います」(後編)亀田和毅「痛めつけて最後は倒しきるというのが理想」(前編)亀田和毅「このまま亀田家が終わるわけにはいかない」(後編)

二宮寿朗

1972年、愛媛県生まれ。日本大学卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。格闘技、ボクシング、ラグビー、サッカーなどを担当し、2006年に退社。文藝春秋社『Sports Graphic Number』編集部を経て独立。