名前江藤智(エトウアキラ)
生年月日1970年4月15日
日本
出身東京都東大和市
プロフィール関東高では1年からレギュラーとなり、高校通算61本塁打をマーク、打率.550の強打ぶりで“関東に江藤あり”とまでいわれた。

1989年ドラフト5位で広島に入団。同年オフには米国フロリダ教育にも参加。1990年二軍と掛けもちで一軍入りを果たし、代打で5本塁打、ウエスタンではチーム最多の12本塁打、35打点。1991年一軍レギュラー(三塁手)。1993年34本塁打を放ち、本塁打王。1994年8月対横浜戦で月間最多本塁打の日本タイ記録(16本)をマーク。

1995年4月通算100本塁打を達成。同年2度目の本塁打王、初の打点王のタイトルを獲得。1996年8月対巨人戦で打球を右目の下に当て、眼窩底骨折と診断される。同年2度目の最高出塁率を挙げる。1997年7月対中日戦で右足を痛め右足舟状骨剥離骨折と診断される。1999年シーズン終了後、FA宣言し巨人に移籍。

2000年12月移籍1年目での史上最高率増加となる33%アップの2億4000万円で契約更改。2001年も2年連続ベストナインを獲得するなど活躍。その後一気に低迷すると2005年オフにFA人的補償で西武へ移籍。2008年には精神的支柱としてチームの日本一に貢献。2009年、通算20年の選手生活を引退。2010年から古巣巨人のコーチとして活躍中。

通算成績は1,834試合、5,866打数1,559安打、364本塁打、1,020打点、83盗塁、打率.268。本塁打王2回、打点王1回、最高出塁率1回、最多勝利打点1回。ベストナイン7回、ゴールデングラブ賞1回。関東高卒、右投右打、182センチ、95キロ

高校通算61本塁打も、広島ドラフト5位指名と期待薄で入団

江藤智は東京都東大和市に生まれ、厳格な父のもとで野球を始めました。小学生時代から東村山リトルシニアに所属すると、メキメキ頭角を現します。シニアに進むと長打力に磨きがかかり、関東高校(現:聖徳学園高等学校)時代には、3年間で通算61本塁打を記録するほどになりました。

2年から捕手を務めており、その強肩強打で「東の江藤、西の谷繁」と呼ばれ全国でも名を馳せます。しかし、甲子園に2度出場した谷繁に比べ、自身は甲子園出場経験が無く、ドラフト順位でも大きく差をつけられます。谷繁は将来の正捕手の期待をこめてドラフト1位指名されたのに対し、江藤は広島東洋カープからドラフト5位と下位指名で入団しました。

三塁手への転向を果たし、待望の和製大砲として頭角を現す

プロ1年目の1989年当時、広島の正捕手は代わらず達川光男が務めていました。打撃力では一日の長があるものの、捕手としては比較にならず一軍出場機会は与えられませんでした。
2年目に初めて一軍試合を経験し、得意の打撃で5本塁打するなど頭角を現します。しかし、マスクをかぶったのはわずか2試合に留まり、多くの出場は慣れない右翼手か一塁手としての出場でした。

1991年、捕手にとって大事な肩を壊し内野手への転向を余儀なくされます。もちろん正捕手達川の存在が大きいことが最大の理由でしたが、江藤の打撃力に球団は賭けました。そして、そこから鬼軍曹と呼ばれた大下剛史ヘッドコーチによる連日の猛特訓がスタートします。重要強化選手としてノックの雨を降らされましたが、壊れない体で必死についていきました。同年は期待をこめて7番三塁手として開幕スタメンに抜擢されると、91試合に出場します。打率.215と低いながらも、11本塁打と光るものを見せました。

広島不動の4番に定着し、2度の本塁打王に4年連続ベストナイン

1992年、前半は出番が少なかった江藤智でしたが、同年後半からチームが大きく後退したことから若手起用のチャンスが生まれます。終盤には4番を任される等、89試合に出場し、打率.289、16本塁打、45打点と大きな経験を積みました。
そして1993年には、三塁手のレギュラーに定着し、開幕4ゲーム目から不動の4番として全試合に出場します。打率.282、34本塁打、82打点と大きく覚醒し、日本人としては山本浩二以来の本塁打王に輝きました。初のベストナインにも選出され、待望の和製大砲が誕生します。そこから4年連続ベストナインを獲得するなど、数年間の4番選出には困らなくなりました。

1994年は、怪我で開幕から出遅れましたが、8月には日本タイ記録の月間16本塁打を放ち、打率も初めて3割をクリアしました。さらに1995年には、39本塁打、106打点で2冠王を獲得してチームの2位浮上に大きく貢献します。
1996年は好調を維持してチームも優勝するチャンスでしたが、8月に眼窩底骨折して自身が離脱したことが大きく響き、巨人に逆転優勝をさらわれました。その後、毎年30本塁打近く放ちましたが、優勝することができず、台頭してきた金本知憲に4番の座を奪われることも多くなります。

そして、1999年、FA権を行使し、故郷である関東圏への移籍が確実視されました。

巨人へ移籍し、2年間は主力として活躍するも大きな低迷期を迎える

当初横浜ベイスターズ移籍と思われましたが、江藤智は一転して巨人を選択します。そして当時の長嶋茂雄監督から背番号33を譲り受けるという大きな期待を背負いました。
前年、多く三塁手を務めた元木大介からレギュラーを奪うと、主に3番打者として活躍し、ともにチーム2位の32本塁打、91打点と長打力を見せ付けます。特に優勝が決定した9月の中日戦では、4点ビハインドの1死満塁から起死回生の同点満塁本塁打を放ちました。江藤らしい美しい放物線を描いた打球で球場は興奮の坩堝と化し、さらに続く二岡智宏のサヨナラアーチで優勝を決めます。自身が主力で活躍して初めて掴んだ優勝でした。

移籍2年目の2001年も、30本塁打、87打点と2年連続ベストナインを獲得します。
しかし、2002年に大きく成績を落とすと、一気に低迷期が始まります。2004年には55試合出場と出場機会を減らし、2005年は、プロ入り後初めてノーアーチで終わりました。

人的補償選手として西武に移籍すると、精神的支柱として優勝に貢献

2005年オフ、巨人はFAで豊田清を獲得しますが、それに伴う人的補償プロテクトリストに江藤智の名前はありませんでした。
そして西武が江藤を指名したことで、FA移籍と人的補償としての移籍を両方経験した史上初の選手となります。

36歳を迎えた江藤は、チーム最年長選手としてプロ17年目をスタートさせました。ベテランのためフル出場はできなくなりましたが、節目となる350本塁打、1500本安打、1000打点を次々と達成します。そしてチームにも馴染んだ3年目の2008年、首脳陣と選手のパイプ役を務め、リーグ優勝、日本一に大きく貢献しました。

現役引退後、巨人へ呼び戻され、指導者としての毎日を過ごす

2009年、代打として20試合に出場するも、かつての輝きは失われ同年限りで引退を決意します。通算20年のプロ野球生活で、ホームランアーチストとして364本塁打を記録しました。
移籍選手にもかかわらず、引退後すぐに巨人の二軍育成コーチに就任します。その後も、一軍打撃コーチ、二軍打撃コーチとして後進の育成に務めています。


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